僕が「神風特攻隊」に教えてもらったこと。それと小さな奇跡と。

このブログは僕が「神風特攻隊」に教えてもらったこと。

そして、僕に起きた小さな奇跡のお話です。

僕の手帳にはこのような一文が貼ってあります。

この手紙は昭和20年5月に戦死された藤井少佐の遺書です。

僕は決して、「神風特攻隊」を礼賛しているわけではありません。

ただ、この手紙を読んで感じるのは、家族を思う気持ちはいつの時代でも同じだということ。

そして、この時代でも子どもには「だっこ」や「ねんね」という言葉を使っていたんだなと、そう思うとただただ胸が熱くなります。

 

僕と「神風特攻隊」を結び付ける、一つの場所があり、一人の方がいました。

 

僕の祖父母の家は鹿児島県の指宿市です。

僕はよく、夏休みを祖父母の家で過ごしました。

そして、祖父によく連れて行ってもらった場所があります。

 

そこは「知覧特攻平和会館」

 

小学生の私にはそこがどのような場所なのかも知る由もなく、ただ零戦の模型見たさに連れて行ってもらいました。

この知覧特攻平和会館がどういった場所なのか詳しく知るのは、中学生以降だったと記憶しています。

 

そして、特攻について深く学ぶきっかけとなった方がいます。

 

それは福岡にある僕の実家の近所に住む一人のおじ様。

このおじ様、数年前にお亡くなりになりましたが、僕が小中学生の頃は、よく犬の散歩をしていて、僕に色々な話をしてくれました。

柴犬を連れ、昔ながらのパイプをくわえた、とてもダンディなおじ様でした。

そのおじ様がよく話してくれたのが特攻の話でした。

 

昭和20年の8月に終戦間際で特攻のため知覧を飛び立ったが、エンジン不調で不時着。そのまま終戦を迎えたこと。

特攻の際、恐くて逃げだす機があればそれを撃墜する係りがいたこと。

無線で聞いた、特攻隊員が死に際に叫ぶのは「天皇陛下万歳」ではなくほとんどが「お母さん」だったこと。

 

そう、このおじ様は「神風特攻隊」の生き残りの方だったのです。

 

柴犬を連れてパイプをくわえたダンディな姿からは想像できないような壮絶な経験をされてきた、すごい方でした。

そのおじ様が特攻へ飛び立った場所が現在の知覧特攻平和会館のある旧知覧飛行場でした。

このおじ様。本当に僕をよくかわいがってくれて、学校帰りにたくさんのお話を僕にしてくれました。

 

話は変わってある日のこと、僕は家族と何気なくテレビを見ていました。

その日はいつも見ていた番組をやっていなかったので、たまたま違うチャンネルの番組を見ていました。

その番組は島田紳助さんが司会を務めていた「バラ色の珍生」(バラ珍と言われてましたね。)という番組で、メインは生き別れした人や初恋の人を番組で探して、奇跡の再会を果たすというもの。

その日、登場したのが70前後の凛とした印象の綺麗なおばあ様。

そのおばあ様はある人を探してほしいと、再現VTRが流れ始めました。

※ 僕の記憶の範囲での番組内容ですので、その辺りはご了承ください。

 

昭和20年某月。知覧町。当時17歳前後だった洋子さん(仮)の実家に突然、10人前後の同じ年ぐらいの男の子がやってきた。

洋子さんの父は洋子さんに「この子たちにおにぎりを握ってあげなさい。」と言った。

戦時中で洋子さんの家のお米も限られている中で、どうして突然来た男の子たちに貴重なご飯を与えなくてはいけないのか。

洋子さんは父の言っている意味が分からない中、言われたとおりにその男の子たちにおにぎりを振舞った。

その男の子たちはその日以来、何度か家に訪ねてきた。

洋子さんの父はその度におにぎりを振舞った。

しびれを切らした洋子さんは父に「何で貴重なお米を、あの子たちに与えなければいけないの?」と尋ねた。

父は一言「いいんだ。あの子たちは特別なんだ。お腹いっぱい食べさせてあげなさい。」

それでも納得は行かなかった洋子さんでしたが、男の子たちと交流をしていく中で、この男の子たちがある作戦を担っていることを知る。

作戦の詳細は教えてくれなかったが、一度出撃すれば二度と帰って来れないことは分かった。

「まだ、私と同じくらいの年なのに…。」

洋子さんはいたたまれない気持ちを抱えて日々を過ごしていく。

そんなある日、洋子さんは体調を崩し、人との接触を禁じられてしまう。当時は不治の病とされた「結核」にかかってしまったのだ。

その日以来、男の子たちは家に来ることが無くなったそうだが、一人の男の子だけ、毎日お見舞いに来てくれた。

ただ、近くには行けないので、部屋と縁側越しに他愛もない話をし、その男のは必ず花を摘んできてくれた。

洋子さんにとってその男の子との時間はとても楽しみな時間となった。

ただ、8月のある日を境にその男の子もぱったりと来なくなってしまった。

不安になった洋子さんは父に「あの男の子たちはどうしたの?」と尋ねると父は「あの子たちはお国のために飛んで行ったよ。」と。

そこで洋子さんの父は「神風特攻隊」のこと、二度とは生きて帰れないことすべてを洋子さんに話した。

洋子さんは「もっとおにぎりをあげればよかった。」「もっとあの男の子と話をすれば良かった。」と後悔の念が噴き出した。

結局男の子の名前を知ることのないまま、終戦を迎える。

 

ここで再現VTRは終わり、カメラはスタジオへと切り替わる。

そこで伸助さんが一言、「ご依頼の内容は何ですか?」

洋子さんが言った一言にスタジオが静まり返る。

「この、毎日お見舞いに来てくれた男の子を探してほしい。」

前代未聞。特攻隊員を探してほしい。

ゲストからも「さすがにそれは…。」とあきらめの表情が。スタジオのお客さんも同じ表情。

 

生きているわけがない。

 

誰も口にはしなかったが、スタジオ中がそういった空気に包まれていた。

 

もちろん、テレビの前の視聴者も大半が同じ思いだったろう。・・・・一人を除いては。

 

僕はこの再現VTRを見ながら思ったことがあった。

(あれ?どこかで聞いたことあるぞこの話。)

 

柴犬連れたパイプのダンディおじ様…。

 

おじ様は本当に特攻に関する話を私にたくさんしてくれた。

その話の中で、「特攻に行く前にとっても良くしてくれた女の人がいてね、まるで女神さまのような人だったよ。」と。

(いやいやまさかそんな奇跡があるわけない…。)

私は心の中で経験したことのないザワザワ感で一杯になった。

そして、紳助さんの口から驚きの調査結果が・・・。

「・・・洋子さん。この方ね。実は・・・。」

 

「生きておられました。」

 

ざわつくスタジオ。洋子さんは顔をくしゃくしゃにして泣いている。

「その方、現在、福岡県にお住まいです。」

(!!!!!!)

私の心臓はもう張り裂けそうでした。

(ウソだ!そんな奇跡が目の前で起ころうとしてるなんて!)

紳助さんは涙をこらえながら

「その方は出撃したんですが、エンジンのトラブルで不時着し、帰還するもそのまま終戦を迎えられました。そしてその方は当時の洋子さんのことをこうおっしゃっておられました。『彼女は私の女神さまでした。』と。」

 

「それではご本人に登場していただきましょう、どうぞ!」

スモークに包まれた扉の向こうから出てきたのは・・・。

 

そう、紛れもなく私に特攻の話をたくさんしてくれたあのダンディなおじ様の姿がそこにありました。

スタジオ中が温かい拍手と涙で包まれました。

 

僕は目の前に起こることすべてに意味があると思っています。

そして、必ずそれは意味を感じる人にしか訪れないとも。

「神風特攻隊」として、命を落とした方たちの多くは10代の若者たち。

冒頭の遺書を書いた藤井少佐は29歳で戦死。

しかも、戦闘機の操縦はできず、教え子だけを死なすわけにはいかないと通信員として特攻機に搭乗し戦死されたそう。

決して、特攻を美化してはいけないと思いますが、先人たちが命を懸けて守ろうとしたこの国で僕たちは生かされている。

その想いは時代を超えて受け継がれていく。

先人たちが守りたかったのは国の形ではなく、生まれ育った地で生きる家族、友人、子どもたちであったことは間違いない。

 

僅かでも先人たちの想いを受け止め、僕も子どもたちの未来を守っていけるよう、日々を生きていきたいと想う。

 

 

 

 

 

 

 

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