2018年 11月 の投稿一覧

僕はあの日やらかした…。

人生詰んだと思った瞬間・・・。

今までの人生を走馬灯のように思い出す瞬間・・・。

皆さんはそんな経験をしたことがありますか?

 

2013年1月。

僕は縁あって、今の場所で「こども専門 乗馬クラブ ペピーズ ホース フィールド」を立ち上げることになりました。

(この辺の話はまたいつか。)

今クラブのある場所は伊賀市の高尾という所で、里山に囲まれ、とても自然豊かです。

簡単に言うとスゲー山奥です。

僕はクラブの立ち上げに向けて、荒れ地だった今の場所をせっせと整備していました。

片づけるものも多かったですが、何と言っても自分の背よりも高い萱やススキがあたり一面に覆い茂り、これの草刈りが一番手を焼きました。

手を焼く…。

草を刈っては集め、それを軽トラに積み、近くの畑に捨てに行く。それを延々と繰り返していても、全く終わりが見えてこない…。

僕の体力と気力はどんどんと削られていく一方でした。

そして、その一連の作業を繰り返して2日後・・・。

僕の心の中の悪魔がささやきました。

 

悪魔 (You・・・そんなの燃やしちゃいなよ。)

 

「そ、そうか、せめてこの軽トラに積む作業さえなければ、負担は減るはずだ…。」

僕は悪魔に魂を売ったのです。

そして、今まで軽トラに積んで捨てていた草の山にそっと火を入れました。

「少しづつ燃やせば大丈夫だよね。」

僕はあっという間に燃えていく草を見て、「これは楽だ!」と感動すらしておりました。

しかしその時、思いがけない風がビューッと吹いてきました。

風は火を巻き上げ、まだ刈っていない草の方へ・・・。

パチパチ。

3か所ぐらいから小さな火が起こりました。

「あ、やべ!」

僕は慌てて、バケツに水を汲みに行き、火を消そうと戻った時には…。

 

速きこと風の如く、徐(しず)かなること林の如く、侵略すること火の如く、動かざること山の如く

 

僕は何度も燃え盛る火に向かい、バケツの水をかけましたが時すでに遅し…。

辺り一面、火の海と化しました。

燃え盛る炎の中で僕は音のない世界にいました。

まだスタートすらしていないのに…。こんなのってあり?

お父さん、お母さん。あんなに意気揚々と夢を語って、九州を出てきたのに引越し1週間で人生終わりそうです。

 

その時、そばの馬小屋兼自宅の2階にいた妻から

妻:「ちょっと!!!!!大丈夫!!!!」

僕:「大丈夫じゃない!!!!消防車呼んでくれ!!!!」

燃え盛る炎にバケツ1個で立ち向かう僕。

妻が通報して1分もしないうちに遠くから消防車のサイレンの音が。

 

 

火の範囲はどんどんと広がっていき、道を挟んで向こう側は杉林が広がる。

杉林に延焼すれば全国ニュースレベルの山火事になるのは間違いなし。

朝刊には僕の名前が踊り狂うだろう。

僕はまさに火事場のクソ力で近くにあった雨水をためるタンクから水を運び炎に向かってぶっかけました。

通常ではありえないくらいのスピードと運動量で水をかけ続けた結果・・・なんと、火の勢いが収まってきたのです。

そして、とうとう火は勢いを弱め、ほとんど消えてしまいました。

 

時間にして10分ほどだったでしょうか?

 

消防車が到着したころには火はほとんど消え、消防車の力を借りることはありませんでした。

ただ、通報の状況から事態はひっ迫していると判断されたのか、出動した消防車の数は20台近く。

救急車やパトカーも来ていました。

真っ黒になった敷地内で真っ黒になった僕。

まつ毛は無くなり、後ろ髪もチリチリになっていました。

服も焼けコゲ、まるで戦地から生還した兵士のようでした。

 

 

消防隊員「いやーだいぶ燃やしちゃいましたね。」

僕「・・・すみません。本当にすみません。」

消防隊員「これだけの範囲燃やしちゃうと始末書必要ですね。」

僕「・・・すみません。え?始末書?」

消防隊員「はい。後で警察の方が来ますから、指示に従ってください。」

 

あれだけの範囲・・・おそらく、2500㎡は消失させてしまった。(すべて草だけだったが。)

数分もしないうちに警察の方が来られ、僕は生まれて初めて始末書というものを書きました。

 

お巡りさん「~~で、~~~だから、こちらにお名前を」

僕は始末書の書き方を丁寧に教わり、言われるままにペンを走らせた。

お巡りさん「ところでご主人、あなたここで何をされてるんですか?」

僕「ええと・・・子ども向けの乗馬クラブを…。」

お巡りさん「はい?乗馬クラブですか?ここで経営されてるんですか?」

僕「ええと・・・まだオープンする前でして・・・その準備をしている際中にこんなことに・・・。」

お巡りさん「はあ・・・。では、ご主人は今のところ無職ですか?ちなみに乗馬クラブの名前などは決まっておられますか?」

僕「かくかくじかじかで」

お巡りさん「なるほど。わかりました。今回は敷地内だけのことなので、始末書だけですが、延焼した場合は罪になりますので、火の扱いには十分気をつけてください。」

僕「本当に申し訳ありませんでした。」

お巡りさん「あと、この一連のやり取りはすべて報道機関が無線で聞いていますから、明日、新聞にお名前が出るのは覚悟して下さい。」

僕「え?」

 

翌朝の朝刊

『伊賀市高尾で山林火災。1月〇日、伊賀市高尾にある乗馬クラブ ペピーズ ホース フィールド 代表 上迫 直生(30)宅で2500㎡を燃やす火事があり・・・・。』

 

まだオープンしてないのに名前でとるし。

 

朝刊を見て、地元の方がいろんな意味で驚かれたのは言うまでもない。

まだオープンしていない乗馬クラブは、現場を一度見ようと地元の方で大盛況。

おかげで顔と名前を憶えていただけたので、良かったのかなと…。(ひとつも良くない。)

 

今でこそ笑い話ですが、本当に火の怖さを思い知らされたし、人生が終わる瞬間を体感しました。

つまりこのブログでお伝えしたかったのは

「火は恐いよ。」

それだけです。

皆さんも火の扱いにはくれぐれもお気を付け下さい。

 

 

 

僕の人生を大きく変えた日。そして、誓いを立てた場所。

僕の人生を大きく変えた日。そして、誓いを立てた場所があります。

 

2011年3月11日。

 

僕は当時、熊本の乗馬クラブで働いていました。

阿蘇の大自然の中にあるクラブでは子どもの乗馬キャンプや主に発達障害のある子のホースセラピーなどに関わり、とても充実した日々を過ごしていました。

長男も生まれ、自分の人生に疑問も迷いも全くありませんでした。

その日の3時過ぎ、お客様のレッスンを終えてクラブハウスのテレビをつけると、信じられない光景が目に飛び込んできました。

 

大きな津波が仙台空港を飲み込んでく映像。

いきなり飛び込んできた映像に、最初は何が起こっているのか全く分かりませんでした。

ニュースキャスターはひっきりなしに「津波が来ています。ただちに避難して下さい!」と言っており、パニック状態。

僕はテレビにくぎ付けになり、まず何が起こっているのかを飲み込むのに必死でした。

分かったのは宮城で震度7、東北沿岸で大津波が押し寄せている。

それだけでした。

 

時間がたつにつれて徐々に分かってくる被害の状況。

ただ、被害が広域すぎて、全容は全く分からない。

僕はただただテレビの前で状況を見守るしかありませんでした。

 

東日本大震災

2018年3月9日時点 死者 15895人、行方不明 2539人

 

この大災害を前にして、自然の驚異と自分自身の無力さを痛感させられました。

僕はなぜ生きているのか?たまたま熊本にいただけだ。僕に何ができるのか?

 

この震災をきっかけに僕は自分の人生について深く考えるようになりました。

毎日、毎日、毎日…。

そして、出した答えは「馬と共に子どもたちを幸せにすること。」

自分の力で夢を叶える場所を作り出すこと。

子どもたちの為に残りの人生すべてをかけることを決意しました。

 

そして、この震災で僕の中に大きく刻まれた2つの出来事があります。

大川小学校で起こったこと。

日和幼稚園のバスで起こったこと。

この2つの出来事が今でも大人としての責任を考える上で、大きく影響しています。

 

大川小学校で何が起こったのか?

https://matome.naver.jp/odai/2148011385631496401

日和幼稚園のバスで起こったこととは?

https://www.sankei.com/affairs/news/170906/afr1709060005-n1.html

 

どちらも子どもが犠牲になった出来事。

このブログで事の真相について、何かを語るつもりはありません。

真相は解明されていませんが、少なくとも大人の責任のもとで起こったこと。

大人が守るべき命を苦しめ、失ってしまったこと。

この二つは間違いのないことです。

 

はたしてこのことを対岸の火事として捉えていいのか?

1000年に一度の大災害だから、仕方がないと捉えるのか?

子どもの命を守るのは大人全員の責任であり、義務です。

そこにわが子であるとかないとかは一切関係ありません。

 

ただ、犠牲になった子どもたちがどんな苦しい思いをしたのか…。

想像することすらできません。

 

僕はこのことを深く胸に刻み、今の仕事に向き合っていますが、どうしても現場に行って誓いを立てたいと思いました。

 

昨年の4月。私は一人で仙台空港行きの飛行機に乗っていました。

 

目的地は大川小学校跡地。

 

仙台空港からレンタカーで大川小学校跡地へと向かいました。

道中はだいぶ復興が進んでいるように見えましたが、仮設住宅も点在し、高台工事も真っ最中でした。

仙台空港から30分ほどで現地に到着しました。

その日は4月とは思えないほどの陽気であたたかい日差しが降り注ぎ、暑いくらいでした。

車から降り、校舎へと進んでいくと、そこには鉄筋がむき出しになった小学校とは思えない無機質な建物がありました。

渡り廊下だった部分は津波で捻じ曲げられ、ありえない姿になっていました。

ただ、校舎の壁に描かれた卒業生の絵だけは色鮮やかなままで残っていました。

校庭だった場所には慰霊碑が立てられ、犠牲になられた方々のお名前が刻んでありました。

近くを流れる北上川はただ穏やかにゆっくりと流れていました。

僕は2時間ほど校舎の周りを回ったり、亡くなった生徒が多く見つかった場所で手を合わせたりと震災から7年経った学校の跡で様々な想いが心の中を巡っていました。

 

その校舎からおよそ200メートル先の三角地にきれいな花壇があります。

 

その花壇は亡くなった生徒さんたちの親御さんが管理されていて、夏にはきれいなひまわりが咲くそうです。

僕はカメラを握りしめていましたが、一度もシャッターを切ることはありませんでした。

写真を撮ることはできませんでした。

ここで多くの命が失われたとは思えないほどに穏やかな日差しが降り注ぎ、川はそよそよと流れていました。

 

この大川小学校での出来事から生まれた絵本があります。

「ひまわりのおか」

内容は割愛させていただきますが、亡くなった子どもたちのこと、子を想う親の気持ちが込められています。

本の最後には亡くなった子どもたちへ親御さんたちがつづった手紙が書いてあります。

もしわが身に同じことが起こったら、僕は何を想い、どんなことをしたのだろうか。

今の自分のすべきことを深く考えさせてくれる絵本です。

 

実はこの大川上学校へ行く前の日、少し不思議なことが起きました。

僕はこの絵本を買って、一回だけしか息子に読んだことはありませんでした。

一回読んだあとは本棚のはじの方にしまっておいたのですが、息子が読んでほしいと持ってきたのです。

この時、僕は息子に大川小学校へ行くことは伝えていませんでした。

なぜ一度しか読んだことのないこの絵本を息子は持ってきたのか。

ただの偶然とは思えず、僕は息子に分かる範囲で東日本大震災のこと、多くの方が無くなったこと、大川小学校で起こったことを話しました。

どこまで理解できたかはわかりませんが、息子は絵本の読み聞かせをじっと聞いていました。

 

2011年3月11日。

あの日、雪がちらつく校庭で子どもたちはどんな思いでいたのか。

津波が迫る恐怖と津波にのまれたときの苦しみは想像をはるかに超えたものだったはずです。

そして、現場には行けませんでしたが、同じくあの日、大人を信じてバスに乗り込み、恐怖と寒さの中、懸命な声で助けを呼んだにもかかわらず命を落とした日和幼稚園の園児たち。

 

2017年4月のあたたかい陽が注ぐこの日。

 

僕は誓いました。

 

「あなたたちの死を無駄にはしない。大人の責任を自覚して、このようなことを繰り返さないように生きていく。そして、今いる子どもたちの未来が笑顔であふれるよう、毎日を全力で生きていく。」

 

僕の仕事は「子どもたちを幸せにすること。」

僕たち残された者のすべきことは、それぞれ違っていても、犠牲になった小さな命を無駄にしないよう、毎日を全力で生きていきたい。

自分に与えられたことを全うし、生きたかった小さな命を胸に毎日を丁寧に生きていく。

それが生かされた者ができる事だと強く信じています。