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子どもの心のブロックが外れると…

僕の乗馬クラブ「ペピーズホースフィールド」では、毎年夏休みに2泊3日の子ども乗馬キャンプをしています。

おかげさまで、毎年たくさんのお申込みをいただき、住んでる場所や年齢の違う子どもたちが集まります。

親元から離れて、2泊3日のキャンプ。

お父さん、お母さん。

お父さんもお母さんも知らないお子さんの姿を僕は知っています。

そんなお話です。

 

子どもは人格を使い分ける

僕はわが子のすべてを知っているのだろうか…。

いや、絶対知らないことがたくさんあります。

それは、長年、夏休みのキャンプに参加している子を見てきて断言できます。

親は、わが子のことをすべて知っていると思いがちです。僕もこの仕事をしていなければ、そう思っていました。

でも、キャンプに参加している子の多くは、親の前では見せない姿を僕に見せてくれます。

それがちょっと快感だったり。

子どもは親の前では親が望む子ども像を演じていますよ。絶対。

子どもは大人に合わせて、ちゃんと人格を使い分けています。

振れ幅の差はあるにせよ、ほとんどの子が親の前での姿と僕の前での姿は別の人格です。

「うちの子は、こんな子なんで。」

残念ながら、全く逆の場合が多いです。

それは、お父さんお母さんの思い込みかもしれません。

お父さんお母さんの前にいる子どもの姿は、お父さんお母さんバージョンの可能性が大です。

子どもは低学年でもちゃんと大人に合わせて人格を使い分けています。

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親が思うわが子の姿

親が見ている子どもの姿は、かなり親の希望や期待が入っています。

そして、おおむね親の希望通りに行動すれば、怒られることが少なくなることを子どもは本能的に察します。

特に心の成長が早い女の子は、その傾向が強いです。

表「お母さん、私がんばるね!」 裏(いやいや、超めんどいんですけど。)

表「お父さん、プレゼントありがとう!」 裏(これじゃないんだよね。私が欲しいの。)

ちょっと例が極端かもしれませんが、親が喜ぶならしょうがねえな的に振舞っていることが意外と多いと思います。

僕も無意識に子どもに自分の希望を押し付けてしまい、思い込みで子どもを決めつけているかもしれません。

うちの親で言うなら、いまだに僕がミートソーススパゲッティ―が大好物だと思っていますから。

好きですが、そこまでじゃありません。

父さん母さん、ここでカミングアウトしておきます。

そんな感じで、親が見ている子どもの姿には親の希望と思い込みがかなり含まれていて、子どもは家庭を平穏にするために無意識に演技をしている場合が少なくありません。

 

子どもの心のブロックを外す

2泊3日の乗馬キャンプでは、僕は礼儀や規律などは重んじません。

最低限のルールはありますが、基本、世の中で子どもがやってはいけないと言われることをやります。

つまり、学校や家庭ではしてはいけないことを敢えてやります。

ルールを守る大切さよりも、ルールを破る楽しさを教えます。(これ、言っちゃっていいのかな?)

例えば、暗くなってから遊ぶ。あとは寝る前に本気のまくら投げをする。

スイカの種をそこらじゅうに、飛ばしまくる。大人とどつきあいをする。(加減してますよ!もちろん。・・・大人は。)などなど。

そうやって、おそらく普段はいけないと言われているルールをちょっと破ってみる。

しかも、お父さんお母さんが見てない所でそれをやる。

楽しいですよ。楽しくないわけがりません。ルールを破るって、マジで楽しいんです。

ただ、最低限のルールは、人を傷つけない事、馬のことを最優先すること、時間を守ること。

これ以外は、よほどの危険を共わない限り、何でもありにしています。

もし、子どもに礼節や規律を学ばせたいと思っている方がいれば、うちのキャンプは参加されない方がいいと思います。

このルールを破る快感を手に入れた子どもたちは、水を得た魚のように生き生きとしています。

ただ、子どもによっては「いや、私は他の子とは違って大人だから。」と、はしゃぐ子どもたちを遠目で見る子もいます。

この子の心のブロックはなかなか強固なものですが、どんなに大人ぶっても、子どもは子どもです。

楽しいことが嫌いな子はこの世にいません。断言できます。

強弱は多少ありますが、みんな楽しいことが好きです。

普段布団の上でははしゃいではいけない。と言われているのに、布団の上でのまくら投げやプロレスごっこが始まる。

最初は戸惑うし、遠目に見ている子が何人かいますが、楽しい方に引っ張られるのが子どもの性。

普段は禁止されていることを全力で楽しんでいる友達の姿。

この大人はいったい何なんだ?注意するどころか、煽ってるやん。いいのか?私も行っていいのか?

子どもの心が混乱し始めます。この混乱が始まれば、もうこっちのものです。まもなくダムが決壊します。

そして、まくらが飛んできて、大人に投げつけられるチャンスが巡って来たとき・・・。

「うわああああああ!!!!」

はい。ダム決壊。

寝る前にはヒーリングミュージック説を根底からひっくり返す、アドレナリンフルスロットル。

してはけないことをする罪悪感をちょっぴり抱くのも、また楽しさを増幅させます。

僕は、この場はルールを破ることを許され、親の目を気にしなくていい状態が子どもの心のブロックを外すことに繋がり、子どもらしさを発揮できると思っています。

 

最後に

私たち親は、子どもに希望を抱き、子どものすべてを知っていると勘違いすることがあります。

そして、子どもは無意識に、親の希望通りに動けば問題が起きないことを体得してしまいます。

それは、大人の世界でもあることなので、決して悪いことではないと思いますが、あまりにその傾向が強いと、子どもは人の目を気にするあまり、自分のやりたいことが分からなくなってきます。

子どもの内は、最低限のルールだけ決めて、枝葉の細かいルールは破ることも大切だと思います。

そうして、自分の本心どおりに動くことの喜びと楽しさを体感すれば、早い内に子どもは自分で本当にやりたいことを見つけて、行動に移すことができます。

それが親の望む子どもの姿とは違ったとしても、子どもが自分で決めて、自分のやりたいことのために行動することは、子ども自身にとっては最高の人生です。

そのためには、子どもの心のブロックを外せる場や環境があることが大切だと思います。

家でも学校でもない、第3の場所。

僕はそんな場所を子どもたちに届けたいと思います。

そんな素敵な体験ができる 夏休みこども乗馬キャンプはこちら!

・・・みたいな宣伝をしようと思いましたが、おかげ様ですべての回が満員となりました。

本当にありがたいことです。

さあ、夏が来る。今年もどんな出会いとドラマが待っているのか。楽しみです。

ペピーズホースフィールド

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人のせいにしない生き方

僕は人のせいにしたり、自分以外の何かのせいにすることが嫌いです。

嫌いと言いつつ、つい人のせいにしてしまう自分がいます。

そんな弱い僕は人のせいにできない状況に身を置くことで、すべて自分事とするようにしています。

人のせいにしない。

それは必ず自己成長につながる。

そんなお話です。

 

僕は人のせいにしまくっていた

人のせいにしない。…と言いつつ、僕は過去、人のせいにしまくってきました。

特に20代前半は自分の置かれている状況をすべて、会社や環境、社会のせいにしていました。

そんな僕がどんな行動をとっていたか?

20歳の僕は遅れてきた反抗期のように、髪を短髪の金髪にし、眉毛は今の半分。

パチスロにはまり、飲みに行けば会社の悪口ばかり言っていました。

それから・・・ここでは書けないような悪いことをたくさんしてきました。(法には触れていませんよ!・・・多分。)

結局、責任を自分外の何かに置くことで、自分と向き合う事、自己成長から逃げていたんです。

だって、それってすごく楽じゃないですか?

だって、でも、のオンパレード

人のせいにする人の特徴は「だって」「でも」が口癖です。

よく分かります。僕がそうだったからです。

人のせいにして、遅れた反抗期のような生活をしていた僕の口癖は「だって」「でも」でした。

なにかあれば、「だって、あれは社長が・・・・。」「でも、それは僕が悪いんじゃ・・・。」

マジむかつきます。今の僕からしたら、最もうざく、友達になりたくないやつです。

人のせいにして生きる人は会話の中に「だって」「でも」が多いです。

「だって」「でも」に続く言葉で良い言葉はありません。

唯一あるとすれば、

「だって私、あなたのこと愛しているから…。」

とか言われたときですかね。言われたことないけど。

(なお、画像と本文は関係ありません。)

 

ある子どもたちとの出会いが考えを変えていく

僕は訳あって、23歳の時に、とある乗馬クラブの責任者を任せられます。

弱冠23歳、今思えばようやったな・・・。

派遣という形で、任せられた乗馬クラブ。

そこはホースセラピーを行っている、発達障がいを持った子どもたちを対象とした乗馬クラブでした。

その頃、僕には発達障がいなど全く未知の領域で、子どもたちとどう接していいのか分かりませんでした。

言葉は悪いかもしれませんが、僕にとっては宇宙人のような存在でした。

この子たちとどう接していけばいいのか?

僕はとにかく毎日必死に手探り状態から、とことん子どもたちと向き合うようになりました。

徐々に・・・というより、自分に責任を置かざるを得ない状況になりました。

立場と環境で自分事に

発達障がいの子どもたちをケアする乗馬クラブを任されたことで、僕の意識は明らかに変わりました。

それまではずっと、人のせいにする人生を歩んできたのに、すべてを自分事としてとらえるようになりました。

このときはあまりに自分を追い込みすぎて、人生の底を経験するのですが、それはまた違う機会に・・・。

結局何が言いたいかと言うと、人のせいにせず、自分事にするためには立場と環境を変えるのが良いという事です。

これは僕なりのやり方ですが、人の心は弱いのでどうしてもそちら側に引っ張られてしまいます。

僕はそうです。

考え方や捉え方を変えようとしても、弱い方に引っ張られてしまって、なかなか自分を変えることができません。

そして、変わらない自分、変えきれない自分に絶望し、また人のせいにしてしまいます。

だから、僕は立場と環境で、自分事にせざるを得ない状況に追い込む方法を選択しました。

 

自分事にすることは自己成長の根源

なぜ、すべてを自分事にしなければいけないのか?

それは、すべてを自分事にすることが自分を成長させるための起点、根源になるからです。

人のせいにしている間は成長はありません。

僕が実際そうだったし、人のせいにする=自己正当化だからです。

自分が正しいと思っているという事は言い換えれば、それ以上成長する気はないということです。

成長する気がないのだから、成長するわけがありません。

人のせいにすることは自己成長を放棄すること。

僕はそう思っています。思っています…と言うより思えるようになりました。

これをすべて自分事、すべての責任を自分に置くとどうなるのか?

自分に責任を置く=自己否定です。

ここでいう自己否定は自分を卑下する自己否定ではなく、もっとできる自分を設定して、上から俯瞰した状態での自己否定です。

なんでこれはうまくいかなかったんだ?そうか、俺のこのやり方が良くなかったんだな。次はこうしよう。

責任を自分に置けば、すべての発想が自分発になる。

自分発の発想から起こす行動はまた自分事として反省し、改善。そしてまた行動。

このサイクルの中にしか、自分を成長させるチャンスはありません。

もう言い切れます。

自己成長は自分に責任を置かない限り実現しません。

それは人のせいにする弱さを持った僕だからこそ、断言できます。

 

最後に

僕は人生の目的の大半は自己成長のためだと思っています。

世のため人のため。

僕ももちろん、そういった志を胸に持っていますが、それすらも自己成長のためです。

だから、弱い自分がいることを知り、その上で独立し、立場と環境で自分の逃げ場を断ちました。

やりたいこと、実現したいこと、守りたいもの。

僕にはたくさんありますが、僕自身が成長しない限り実現できません。

人間として、経営者として、父親として、社会人として。

僕はすべてを自分事と捉え、人のせいにせず、自分を成長させていきます。

短髪金髪の眉毛なしパチスロどはまり・・・ピーピー(ここでは言えない…。)の言い訳野郎でも、変われました。

人のせいにしない。すべては自分事に。

偉そうに言ってますが、本当にこれが自己成長の根源だと思います。

 

 

 

 

自分が好きなことをできるのは…

僕は毎日、自分のやりたいこと、自分の想いを叶えるために全力を傾けられています。

ときには投げ出したくなる時もありますが、本当に自分のやりたいことに全力を注げることに感謝しています。

それは僕を支えてくれる多くの人のおかげ。なのですが、一番は妻のおかげです。

妻は僕のやることに一度も反対したことはありません。

僕にとっての一番の財産は、そこです。

こんだけ無茶苦茶してんのに、文句ひとつ言いません。むしろ楽しんでくれています。

まだまだ経済的に余裕があるわけじゃない。

種まきにすべて私財を投じてきたので、新婚旅行も行ってないし、結婚指輪も買ってない。

車だっておんぼろだし、住まいは馬小屋の2階。

妻は我慢なんてしてない。楽しいよ。と言ってくれますが、その言葉に甘えてはいけない。

芽の生えない種もあるけど、少しずつ芽が出てきて育ってきている。

それが実になり、収穫できるまでに時間がかかる道を選んできたけど、そろそろ圧倒的な結果を出さなきゃいけない。

それは、自分自身が大きくなることと、経済的自由を手に入れること。

自分の叶えたい思いはたくさんあるけど、今まで一番そばにいる妻のことを疎かにしてきました。

世の中お金じゃないよ。

なんて甘ったれた言葉を自分の中から消して、圧倒的に稼いでから、お金を語れるようになる。

妻の好きなものを買ってあげたいし、結婚指輪も、新婚旅行も必ず連れて行く。

先日、大阪の街中に行く機会があったのですが、そこには高級ブランドのお店が立ち並んでいました。

その一軒のお店。プラダかグッチか忘れましたが、ガラス張りの店内の中に妻と同じぐらいの女性が、うちの子どもと同じ年齢くらいの子と一緒にバッグを選んでいました。

妻はブランド品には一切興味ないので、そんな生活を望んでいるわけではないと思います。

でも、何や分からんけど、久々に悔しくて涙がポロポロ出ました。

事業に突っ込んだお金があれば、新築の頭金にもなったし、それなりの車だって乗れた。

良い条件の引き抜きもあったし、経済的にはかなり楽な生活も用意されていた。

それを、僕のやり遂げたいことのためだけに、すべて蹴っ飛ばして、今の道を選んだ。

それってかっこいいように聞こえますが、それ以上の生活をさせてあげられなければ、かっこよくもなんともないです。

ただの自己満足。それで終わってしまいます。

昔から、何でもできるようになるまで時間のかかっていた僕。

それは大人になっても同じのようで、相変わらず結果が出るまで時間がかかる。

そんなゆっくりな僕に愛想つかさず、支えてくれる妻。

もう言葉でのありがとうはいい。結果で返すよ。

でも、やっぱり言います。

いつも支えてくれてありがとう。側にいてくれてありがとう。これからもよろしく。

 

子どもの失敗体験は大切なこと

子どもには成功体験を沢山させることが大切です。

それは、間違いないことで、多くの親御さんが実践されていると思います。

僕も子どもたちには小さな成功体験を積み重ねることを意識しています。

一方で、子どもの失敗体験はどのように捉えればいいのか?

僕は子どもにとって成功体験と同じくらいに失敗体験も必要だと思っています。

そんなお話です。

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なぜ成功体験が必要なのか?

子どもには成功体験を積み重ねることが必要。

それはなぜなのか?

よく、成功を積み重ねることで自信がつき、自己肯定感が高まると言われています。

この自己肯定感をどう考えるかで、意味が随分と変わってきます。

結局、自己肯定感ってなんなん?って思わないですか?

結構、フワッと意味をとらえてしまい。深く考えない。僕もそうでした。

でも、そこがフワッとしていると、なぜ成功体験が必要なのかが分からなくなってきます。

僕が思う自己肯定感ですが、それは自分のことすべてを肯定的に捉えること…とは少し違うと思っています。

僕が思う自己肯定とは、上手に自己否定を使えること。そのために、いつも先にいる自分をイメージすること。

子どもには成功体験を積み重ねることを日常的に意識しています。

 

失敗体験から学ぶことの大切さ

一方で失敗体験は必要ないのか?

僕は成功体験と同じくらい、失敗体験も必要だと思います。

先ほど言ったように、僕は自己肯定には、上手に自己否定を使うこと。が大切だと思っています。

失敗をすると、悔しいですよね?そして、同じ思いをしないように、改善、行動、努力をします。

その悔しさがあきらめない心と継続する原動力になります。

この悔しさとは、自己否定から来るものだと思います。

くそ!なんで僕はできないんだ!もっと練習すればよかった!弱い自分が嫌だ!

その悔しさは僕はすごく大切だと思います。

この悔しさ、つまり自己否定を上手に使うためには失敗体験はとても大切です。

そして、この上手な自己否定をするために大切なのが、いつも先にいる自分をイメージできることです。

僕には良い自己否定と悪い自己否定があると思っています。

良い自己否定とは先にいる出来る自分をイメージして、今を否定すること。

悪い自己否定とはできない自分を嘆き、卑下すること。

この、良い自己否定をするために、常にできる自分、先の自分をイメージすることが大切だと思っています。

今はできなくて悔しいけど、僕は本当はできる。今に見とけよ!ゴラァァァァッァアァァァァァァァァァァ!!!!

これです。

この良い自己否定できるようになれば、失敗から、反省⇒改善⇒行動⇒結果を継続し、諦めない心が身につきます。

それができるようになれば、どんな生き方を選択したとしても、必ず結果を出し、生き抜くことができると思っています。

そう考えると、失敗体験から学ぶことも沢山あります。

もちろん、失敗ばかりだと悪い自己否定に引っ張られてしまうので、子どもの内は成功体験も大切だと思います。

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ちゃんと失敗させる

基本、子どもが失敗や成功の体験をするには、親は邪魔をしないことです。

子どもが何かするときに、つい手助けをしたくなる。

子どもが泣く姿は見たくないし、落ち込む姿もみたくない。

僕もそうです。つい、子どものやることに、ころばぬ先の杖を与えてしまう。

それが親心なので仕方ないのですが、そこはグッとこらえて、子どもにはしっかりと失敗をさせた方がいいです。

それが、子ども自身が選択し、自分が決めて行動した結果の失敗であれば、その失敗は最高の失敗です。

ここから子どもは良い自己否定へとつながって、悔しい思いをし、諦めない心が育つ。

だから親のできることは、基本は子どもの邪魔をしないことです。

そして、邪魔をしないだけではなく、子どもが自発的に行動できる環境を与えてあげることも大切だと思います。

子どもが自発的に行動できる環境を与え、あとは見守る姿勢を貫けば、子どもはちゃんと失敗できます。

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もちろんそこからたくさんの成功体験も得ることができます。

自分で決めて行動し、失敗する。そして成功する。

親ができるのは、それができる環境を与えることと見守ること。これに尽きるのかな?と思っています。

ここで言う環境は習い事でも、遊びでもなんでもいいと思います。

親は選択肢を与えて、あとは子どもに選ばせる。そこがスタートですね。

 

最後に

子どもの成長に必要なことってたくさんありますが、その中でも、自己肯定感を高めることは大切な事の一つです。

ただ、親自身が、その自己肯定感の意味をあいまいに捉えていると、子どもにもあいまいに伝わってしまいます。

この自己肯定感の捉え方は親によって違うので、親それぞれが思う自己肯定感を明確にして、子どもに向き合っていれば良いと思います。

僕の思う自己肯定感は、上手に自己否定を使うこと。いつも先にいる、できる自分をイメージすること。この二つを持つことだと思っています。

その二つを子どもが持つことができれば、失敗して諦めることも、自分を卑下して、思考停止になってしまうこともありません。

自分で決めた行動に、反省し改善する。それが行動に繋がり、継続する。それが諦めない心の基軸となる。

それは子どもたちが大人になって、どんな生き方を選択しても、どのシチュエーションでも必要で大切なことです。

そのために、親は子どもが大人になることをイメージし、子どもが心の真ん中に軸を持ち、本当の自己肯定感を持つための行動をすることです。

難しいことではなく、子どもにそれらを経験できる場の選択肢を与え、見守ることができればいいのだと思います。

世の中には子どもに良さげなものや考え方が溢れていますが、良さげというあいまいなものに振り回されて疲れてしまわないように、親として子どもに伝えたいものをシンプルにして、あとはブレずに行動することが大切だと思います。

とはいえ、そんな僕もブレることはよくありますが、子どもには好きなことを選んで、生きて行って欲しいですね。

 

 

歌うことが好き

僕は歌うことが好きです。

そして、歌いだすと自分の世界に入るので、カラオケでは完全にヤバイ人です。

そして、男らしからぬハイトーンボイスが自慢です。ええ。

でも、小さいころは高い声をバカにされ、自分の声が大嫌いでした。

そんな僕が歌うことが大好きになった。

そんなお話です。

 

喘息に苦しんだ小学生時代

僕は小学生のころ、喘息がひどくて、2回ほど死に掛けたことがあります。

吸入器がお友達で、しょっちゅう病院でお世話になりました。

あの頃のことを思うと、両親には特に母親にはすごく迷惑をかけて申し訳なかったと思います。

そんな喘息発作オンパレードの僕に、ちょっとした転機が来ます。

当時、僕の担当をしていたお医者さんに喘息の改善に「水泳」か「合唱」を勧められました。

どちらも、呼吸器系を鍛えられ、呼吸の仕方も身につくとのこと。

正直、全然乗り気じゃなく、ただ泳ぐのだけは絶対に嫌だったので、消去法で「合唱」を選びました。

 

地元の合唱団に入る

僕の通っていた小学校の先生の一人が合唱団をやっていて、先生に声を掛けてもらったこともあり、その先生の合唱団に入団することになりました。

合唱自体をよく分かっていなかった僕は、言われるがままに合唱団に入団しましたが・・・。

「女子ばっかやん。」

男子は、僕を含めて二人。合唱団のメンバーが40人ほどなので、もうほぼ女子です。(ハーレムやん!)

少年少女合唱団。なのに、ほぼ少女でした。

僕の通っていた合唱団では「ソプラノ」「メゾソプラノ」「アルト」のパートに分かれていました。

ソプラノ=高音 メゾソプラノ=中音 アルト=低温

そう思っていいただければ大丈夫です。

たいての男子は「メゾソプラノ」か「アルト」になるのですが、僕は「ソプラノ」でした。

しかも、ソプラノの中でもさらに高い声が出る3人のうちの一人でした。

もののけ姫もビックリの超高音が出る、かなり珍しい男子でした。

 

合唱はスポーツ

合唱は歌を歌うばかりではありません。

練習の大半は発声練習で、この発声練習がなかなか過酷なのです。

合唱の基本は腹式呼吸。腹式呼吸をよりよくするために、腹筋を鍛えます。

そのため、発声練習のための腹筋運動や、発声練習では寝たまま足を上げて声出しをする(これが結構大変!)など、意外と体育会系なのです。

コンサートの前などには、泊まり込みの合宿があり、一日6時間以上合唱の練習をしたことがあります。

そのおかげか、僕の腹筋は小学生なのにプチシックスパックになっていました。

 

歌うことが自信に

女子みたい。とバカにされた自分の声があまり好きじゃなかった僕ですが、合唱を続けて行くうちに、自分の声に自信を持てるようになりました。

そして、お医者さんの言った通りなのか、喘息の発作もすこしずつ改善していきます。

高い声が出ることに快感を覚えるようになった僕は、歌うことで自信をつけて行きました。

体が弱く、チビでいじめられっ子だった僕にとって、人生で初めて自信を持てるものでした。

そして、一番自信をつけることになったのは、ミュージカルで主役をさせてもらったこと。

何百人の前でソロで歌を歌う。演じる。

また、そのミュージカルの練習の時に、ウィーン少年合唱団が来日しており、そこの校長先生が練習の視察に来てくれました。

あの、ウィーン少年合唱団ですよ?

そこで、校長先生の前で歌を披露したのですが、校長先生が本気で褒めてくれました。

リップサービスなどではなく、本気でです。

・・・言葉は分からなかったけど、通訳さんの話を聞かなくても、熱量が伝わってきました。

あの、ウィーン少年合唱団の校長先生がですよ?

その時の体験は僕に自信を与えてくれた、とても大切のものとなりました。

 

歌でまたチャレンジしたい

僕なりに声変りを迎え、合唱団は退団しましたが、37歳になった今でも歌うことが好きです。

そして、37歳のオッサンの割には高い声が出ます。

僕にとって、合唱団での歌との出会いが、人生で初めて自信を与えてくれました。

その経験は、今でも僕の生き方に影響を与えています。

歌うことが好きと言っても、車の中で熱唱するか、馬小屋で馬に向けてコンサートをするぐらいです。

そんな中、今年の2月、次男が「伊賀市子どもミュージカル」に出演し、小さな役でしたががんばって演じていました。

この「伊賀市子どもミュージカル」は年中から高校生までの子どもたちだけで構成されるミュージカルで、年に一回の公演のために前年の10月にオーディションを行い、毎週末、朝から夕方まで練習を重ねます。

これがとても良くて、心が震えるくらい感動します。

僕は小学校の時の自分と照らし合わせ、よく大勢の人の前で一人で歌えたなと、小学生の自分に感心していました。

あの、ひたむきで一生懸命だった自分を思い出させてくれました。

その時に、湧き出た感情は「もう一度、歌で表現してみたいな。」でした。

37歳のオッサンが歌で何を表現するのか?

小学生の時の合唱の時の経験以外は一切、歌や音楽の勉強をしていたわけではありません。

でも、歌で何か表現したい。

ずっと、馬と子どもたちの事しか頭になかった僕に、初めて芽生えた(・・・そうでもないか。)、独りよがりな感情でした。

 

最後に

さてさて、歌で何を表現する?って話ですが、今、いろいろ準備中です。

少しずつ出せるものから出して行こうと思います。

37歳。3児の父。甘いもの大好きのヒゲオッサン。

何を血迷ったのか、歌で何かを仕掛けて行こうとしている、変態です。

でも、人生で初めて僕に「自信」と言う大切なものを与えてくれた「歌」に恩返しがしたいんです。

一度きりしかない人生、たまにバカをさせてください。(たまに?)

少しずつ、出して行きますんで、ぜひ面白おかしく僕を見ていてください。

面白いことになりまっせ!ふふふ。(意味深)

最近ちょっと太ったかな…。

 

 

 

 

 

自分をさらして行く

僕はどんどん自分をさらして行こうと思っています。

自分の想い、考え、生き方、好きなもの、嫌いなもの、できるだけさらして行きたいと思っています。

もちろん、誰にも言えないことの一つや二つ(いや、もっとある。)はありますから、全部はさらせませんが、さらせるもんはさらして行こうと思っています。

僕は少し前まで、不言実行こそ大切で、結果こそ全てだと妄信していました。

もちろん、不言実行で結果を出す人はかっこいいと思いますし、今もそういう生き方を尊敬しています。

そして、結果を出すことも大切です。

ただ、不言実行と言うのは、あくまでも手段であって、結果を出すためには柔軟に手段は変えて行かなければいけません。

ここでいう結果とは、自己成長、自分の想いの実現、すべてにおいてです。

そんなお話です。

 

かっこつけていた自分

僕はかっこつけていました。おそらく、かっこつけていたんだと思います。

そして、世の中を少し、斜に構えて見ていたように思います。

夢や想いを語っている人を見ると「大した結果も出していないくせに…。」とか、「男ならだまって結果を出せばいい。」とか。

そんな、だいぶ上から目線の発想で、物事をとらえていました。

男なら不言実行。結果で人は納得する。

そう思い込み、人の話など聞かず、とにかく自分の信念だけを押し通そうとしていました。

まあ、それで結果が出ればよかったんでしょうけど、僕は完全に壁にぶち当たりました。

(もう、こんな感じでかっこつけてました。)

 

自分の限界を知る

思い込むと周りが見えなくなるタイプの巨人の星のような僕は、不言実行で結果を出すことに固執していました。

完全に意地を張っていたんです。

でも、世の中はよくできているもので、そこにはでかい壁が必ず待っています。

この壁をぶち破るほどのパワーの無い僕は、完全に壁の前で立ち往生します。

自分の想いばかり蓄積して、アウトプットできない。しようともしない。

周りの話など全く聞かない。興味もない。

勝手に煮詰まって、自爆寸前になっていました。

そんな状態で結果も出るわけなく、いろんな意味で横ばいな期間を過ごしてきました。

完全に迷路にはまっていました。

 

少しずつ想いを吐き出してみる

この不言実行かっこいい説にドはまりして、彷徨っていた僕ですが、徐々に変わっていきます。

保育園の保護者会の会長や、地域コミュニティーの代表、商工会の青年部支部長などなど、少しずつ役をもらえるようになり、人前で話す機会も増えてきました。

なにげなく、自分の思いや考えを話すと、思いのほか周りの人が反応してくれたり、応援してくれることに気づきました。

そして、その流れで、地元新聞の取材を受けたり、僕の話をわざわざ聞きに来てくれる人がいたり。

あれ?何か雰囲気変わって来たぞ。

(マジかよ?)

人に自分の思いを語るのに、恥ずかしさと言うかためらいを持っていた僕ですが、いざ話してみると小さな変化が生まれてくる。

それは、不言実行かっこいい説を妄信していた僕にとっては大きな変化でした。

 

不言実行から有言実行へ

そして、僕が不言実行から有言実行へ変わる出来事がありました。

それは昨年に行ったクラウドファンディングへの挑戦です。

クラウドファンディングを利用して、一頭の馬を購入することを決意しました。

そして、その馬を通して、自分の想いの発信や、子どもたちの自己実現の手助けをしたいと考えました。

挑戦したクラウドファンデングはこちら ⇒ 三重県にある「子ども専門」の乗馬クラブに、新馬を購入したい!

もちろん、人生初のクラウドファンディング。

はい。僕は超絶ビビってました。

(え?知らん猫おるし。ばりにビビってました。)

資金が集まらない不安ではなく、誰からも相手されなかったらどうしようという不安です…。

自分で不言実行を選択したくせに、何とも身勝手な思い込みです。

そして、担当者との打ち合わせでは、最低支援価格を3,000円からに設定していたのを、ビビッて2,000円にしようとしたくらいです。

いざ、クラウドファンディングが始まると、僕の不安はよそに、たくさんの本当に温かいご支援をたくさんいただきました。

僕は達成できた喜びよりも、意外とたくさんの人が応援してくれていることと期待が嬉しかったです。

ここで僕が思ったのが、かっこつけていた自分もいたけど、想いを発することに超絶ビビっていたんだという事が分かりました。

僕は何でもそうなんですが、人より気が付くのがだいぶ遅いんです。

でも、気付けて良かった。

このクラウドファンディングの挑戦は、僕の考えを大きく方向転換させ、ビビりな自分に大きな勇気を与えてくれました。

 

最後に

僕は今は、自分の想いをどんどん発信していこうと思っています。

そして、自分の行動をさらすことで、自分に言い訳を作らないようにします。

僕の正体は、ビビりで弱い人間です。

これは決して自分を卑下しているわけでなく、そこをしっかり認めることが自己成長への大きな一歩だと考えているからです。

不言実行を妄信していた時の僕は、かっこつけていただけでなく、弱い自分を隠そうとしていただけです。

すごい自分だけでなく、弱くてだめな僕をさらしながら、想いを形にしていきたいと思います。

それが、結果につながる一番の近道であり、今の僕には必要なことだからです。

そして、その想いを受けて止めてくれる人が周りにはたくさんいます。応援してくれる人がたくさんいます。

また、想いを形にしている人、応援したい人も周りにたくさんいます。

そんな人たちに成長した自分を見せる事、結果で恩を返す事。

その目的の達成のための手段は柔軟に変えていくこと。

僕は自分の想いを発信する、有言実行を選びました。

こうして、ブログに書き留めていくことも大切な事の一つです。

僕には叶えたい想い、幸せにしたい人、恩を返したい人がいます。

そのためにも、自分の想いをしっかり発信し、行動で示し、結果で答えていきたいと思います。

 

 

父と行く修学旅行

僕には今、3人の子どもがいます。

小学3年生の長男、小学1年生の次男、2歳の長女。

うちの子どもたちは10歳になると「父と行く修学旅行」というイベントが待っています。

この「父と行く修学旅行」は、USJやネズミさんの夢の国に行くような、ワクワクするような修学旅行ではありません。

生きるとは何か?

それをとことん考える、楽しい要素など一つも無い、まさに修学旅行です。

 

僕が生きることを考えた場所

僕は生きることに悩んだときは、手帳に自分を鼓舞する写真や、手紙の一文を貼っています。

児童虐待で亡くなった子の事件の記事。

特攻隊員の残した遺書。

東日本大震災で児童74名が亡くなった大川小学校の写真。

家族の写真など一切貼っていません。

重いかもしれませんが、僕にとっては生きることと向き合うために必要なものです。

僕は今、大切な人たちに囲まれ、自分のやりたいことにすべてを注ぎ、生きることができています。

そのありがたさ、尊さをおろそかにしてしまい、弱い自分に引っ張られそうになるときがあります。

そんな時は、手帳に貼られた先ほどの写真や手紙を見て、弱い自分の尻をひっぱたきます。

なぜ自分は生かされているのか?自分の成し遂げたいことは何なのか?

それを常に自分に問いながら生きています。

そうやって自分の生きる意味を考えさせてくれる事に由縁のある場所に子どもたちを連れて行きます。

 

修学旅行先は3つの場所から選ぶ

父と行く修学旅行先は以下の3つの場所です。

知覧特攻平和会館

靖国神社

大川小学校跡地

このいずれかから行き先を選んでもらいます。

僕は神風特攻隊の礼賛者でもなんでもありません。

ただ、なぜか神風特攻と不思議な繋がりがあっただけです。

その不思議な、奇跡のような体験は以前のブログで書いています。

⇒ 僕が「神風特攻隊」に教えてもらったこと。それと小さな奇跡と。

僕らが現在を生きていく上で、先の大戦から目をそらすわけにはいきません。

日本はなぜ戦争をしたのか?なぜたくさんの命を失ったのか?当時の人達がどんな想いで命をかけて戦ったのか?

そこにしっかり向き合わない限り、今の社会情勢、国際情勢、世の仕組みを語ることはできません。

そして、僕のおじいちゃんは戦争体験者で、戦艦「金剛」の乗組員でした。

このおじいちゃんの生き方も、僕の生き方に大きな影響を与えています。

その話は、また違う機会に。

そして、2011年に起きた東日本大震災。

多くの方が犠牲となり、その被害の凄まじさは記憶に新しいと思います。

また、東日本大震災をきっかけに、生きる意味を考えた人は多いのではないでしょうか?

東日本大震災のなかでも、宮城県石巻市での津波被害に遭った大川小学校での出来事。

津波により、児童74名が犠牲となり、子どもを守ることが何なのかを考えさせられる出来事です。

僕は震災から6年後に大川小学校跡地を訪ねました。

その時のブログはこちらから。

⇒ 僕の人生を大きく変えた日。そして、誓いを立てた場所。

自分たちが生きる意味、生かされている意味。亡くなった人たちがどんな想いで命を落としたのか。

これから生きていく上で何を大切にし、自分の真ん中に何を置くのか?

そんなことを考えさせてくれるのが、前述した3つの場所だと思っています。

 

父としてできること

僕は3人の子の父親ですが、父親としてできることの役割の主は、子どもに「在り方を見せる。」ことだと思っています。

人としての在り方、大人としての在り方、父親としての在り方、男としての在り方。

何か格好いいこと言ってますが、僕には「在り方を見せる。」それが一番、子どもたちに伝えたいことを伝える方法だと思っています。

どんなに素晴らしいことを説くよりも、自分自身が教材となり、生きざまを見せる。

古い考えかもしれませんが、父親としてできるのはそれが一番大切だと思っています。

 

生きる意味を考える

写真や教科書を使って、教えることもできます。

でも、僕は現場の空気や、雰囲気を感じ、五感を使って学ぶことが、一番だと思っています。

その現場に行って、そこで何が起こり、そこにいた人がどんな想いでいたのか。

それを子どもなりに深く考え、自分と向き合う時間を持つこと。

それは生きる意味を考えることと同義で、とてもとても大切な時間だと思っています。

僕はこの10歳で、生きることに向き合うきっかけを与えることが一番のタイミングだと思っています。

「つ」のつく間は神の子。と言われ、5つ、6つ、7つ、8つ、9つ。

「つ」のつく間はとにかく無条件の愛情を注ぐことが大切と言われています。僕もそう思っています。

「つ」が無くなる、10歳の時。子どもにとって、大人へのステージが一つ上がります。

今の子どもたちが大人になるのは18歳から。

12歳くらいになれば、思春期を迎え、親の言うことはうっとうしくなる。

それは大人になるために当り前のことで、子どもが思春期に入る前の10歳に、親として一番大切な事を伝えたいと思っています。

 

最後に

今を生きている以上、僕にとっては先の大戦と東日本大震災と向き合う必要があると思います。

僕は先の大戦の大義を議論するつもりはありません。

ただ間違いないのは、当時、戦争を体験し、戦い、犠牲になられた方々は僕らと同じ人間です。

同じように家族を愛し、痛みを感じ、悲しみに打ちひしがれていたはずです。

その多くの犠牲の上に現在があるのは、紛れもない事実です。

そして、東日本大震災という未曽有の大災害で、犠牲になられた方々、子ども達も同じです。

生かされているという言葉はきれいごとに聞こえるかもしれませんが、僕は生かされていると思っています。

たまたま生まれた時代、生まれた場所が良かっただけと言えばそれまでですが、生かされている以上、中途半端な生き方はできません。

わが子が10歳になり、「生きる」ことと向き合うきっかけを「父と行く修学旅行」で作りたいと思います。

自分たちが生かされている意味をそれぞれが考えたとき、子どもたちは大人になるためのステージを一つ上がれると思っています。

 

 

 

 

ありがとうが合言葉

すごく当たり前のことですが、「ありがとう」は言った方がいいです。

もう、口癖になる位、言った方がいいです。

僕はこの「ありがとう」がなかなか言えませんでした。

自然と「ありがとう」が言えるようになってきたのは、ごくごく最近です。

「ありがとう」が自然と言えるようになると生活にも変化が出てきます。

そんなお話です。

「ありがとう」が言えない

小学生みたいなこと言いますが、僕は「ありがとう」が恥ずかしくて言えませんでした。

仕事柄、お客様に対しての「ありがとうございました。」は言えていたのですが・・・。

地域性なのか、僕の周りがそうだったのか、あまり「ありがとう」という言葉が使われてきませんでした。

コンビニでお釣りをもらう時、レストランで食事が運ばれてきたとき、バスを降りる時・・・。

僕の住む地域では、そんな場面で「ありがとう」を言う人なんてほとんどいなかったし、一昔前の亭主関白の塊のような父親が母親に「ありがとう」を言ってるのを僕は一度も見たことがありません。(今は別人のように優しいです!)

なんだか人のせいにしているみたいですが、本当に「ありがとう」という言葉が少ない環境で育ちました。

そのせいか、大人になっても「ありがとう」を言うのに抵抗がありました。

 

カルチャーショックを受ける

僕は今、三重県の伊賀市に住んでいます。

地域としては東海地区になりますが、伊賀市はどちらかというと関西の影響が強く、言葉も関西弁に近いです。

伊賀市に限らず、大阪、京都で僕が感じた事。

もう、「ありがとう」が飛び交っているんです。(大阪では「おおきに」ですが!)

電話を切るときは「ありがとう」で切る。コンビニでは「ありがとう」と言ってお釣りをもらう。マクドナルドでも「ありがとう」と言って商品を受け取る。

僕の出身は福岡ですが、あまりそういった場面で「ありがとう」を使うことは無いように思います。(違ってたらすんません!)

もうなんというか、僕の今住んでる地域では「ありがとう」が合言葉なんです。

最初、これに慣れずに、なかなか「ありがとう」が言えませんでした。

目上の人への「ありがとうございます。」は言えるんですが、「ありがとう」の「ごさいます。」外しバージョンの活用法が分からなかったんです。

まさにカルチャーショックでした。

 

勇気を持って言ってみる

僕が伊賀に移住してきたとき、使うのに勇気が言った言葉ベスト3の発表です。

「ありがとう」「なんでやねん」「ほんま」

です。

話は逸れますが「なんでやねん」「ほんま」に関しては、

福岡 ⇒ 北海道 ⇒ 熊本 で人生を過ごしてきた僕には、使うにはかなり勇気がいりました。

北海道で良く使われる「なまら」「だべ」はなぜか抵抗なく使えました。

なんか、関西弁ってお笑い芸人しか使わないようなイメージというか偏見があったからです。

かなり関西色の強い伊賀弁でも「なんでやねん」「ほんま」はよく使うので、自然と言えるようになるまでに2~3年はかかりました。

そして問題の「ありがとう」。

全然、方言でもなんでもない、バリバリの標準語です。のはずです。

でも、言えない…。「なんでやねん」「ほんま」よりハードルが高い。

いっそ外国人を装って、「センキュー」と言った方がましかも…とすら思ったことがあります。

悩んだ挙句、僕は妻に「ありがとう」を言うようにしてみました。

カエルの子はカエル。

なのかは分かりませんが、僕は妻と出会ってしばらくは亭主関白感を出していました。

よく、そんな風に見えないと言われますが、昔は亭主関白感をムンムンと出していました。

でも、お茶を入れてくれたら「ありがとう」。ごはんを運んできてくれたら「ありがとう」。側にいてくれてありがとう・・・は言ってないな。

とにかく、妻に対して、「ありがとう」を言うようにしてみました。

これでも結構勇気がいったんですけどね!

 

「ありがとう」が言えると空気が変わる

妻に「ありがとう」を言えるようになると、不思議と喧嘩することも少なくなってきました。

最近はほとんど喧嘩しません。…してないと思います。

そしてお店の店員さん、バスの運転手さん、ご近所さん…いろんな人に「ありがとう」が言えるようになってくると、空気というか雰囲気が変わるのが分かってきました。

最初は「ありがとう」という言葉を吐き出すことが目的でしたが、(本当に吐き出す感覚でした。)だんだんと抵抗なく言えるようになり、抵抗なく言えるようになると、次は自然と口から出てくるようになり、そうなると不思議と心から「ありがとう」と思えるようになりました。

この感覚は本当に不思議です。

他の人からすれば、そんなん当たり前やん。

と思うかもしれませんが、僕はこの感覚を手に入れるのに約30年かかりました。

「ありがとう」って、大切な言葉ですね。

(なお、画像と本文は一切関係ありません。)

 

最後に

「ありがとう」は言った方がいいです。

しかも、口癖になる位、言えるようになると心も変わってきます。

そして、それは年齢や住んでいる地域関係なく、言えるようになった方が自分にも人にも穏やかに接することができます。

全ての事を当たり前と思わず、当たり前に「ありがとう」と感謝する。

僕は地域の文化の違いがきっかけで、「ありがとう」が言えるようになりました。

しかも30歳を超えてからの話です。

変わるのに遅すぎることはありません。そして、言葉一つ変えるだけで、心まで変われます。

それで、これから先の人生と周りの人が豊かになるのなら、こんなに素敵なことってないですよね。

僕の口癖は「ありがとう」。

今はそう言えるようになりました。なったかな?

 

 

 

 

不便を楽しむ

僕は敢えて不便な生活をしています。

…と言うより、不便なことを意識的に生活の中に入れるようにしています。

それは便利なもので生活が良くなる一方で、生きる力が衰えていくと感じているからです。

相変わらず極端な僕ですが、生活に不便を意識的に入れることで生きる力がパワーアップする。

そんなお話です。

 

便利があふれている

人類は文明の発達とともに、常に利便性を追求してきました。

もちろん僕もその文明の発達の恩恵にあやかり、快適な生活を送らせてもらっています。

スマホは必要な情報をすぐに探すことができます。動画も見れるし、人との交流もSNSなどを通じて、より速く、深く繋がれるようになりました。

買い物だって、ネットでポチッとすれば翌日に商品が届きます。

トイレのふたも自分で開けなくても、自動で開くようになりました。(必要?この機能必要?)

ただ、利便性と快適さを手に入れた一方で、生きるために必要な力が衰えているようにも感じます。

僕が考える生きるために必要な力とは、「自己完結できる力」「何にも依存しない力」だと思っています。

「自己完結できる力。」「何にも依存しない力。」

今、お風呂に入ろうと思えば、ボタンを一つ押せば快適な温度で、10分もしないうちに入れます。

お腹がすけば近所のコンビニに行けば、おいしいものが買えます。

蛇口をひねれば水が出るし、コンロのボタンを押せば簡単に火がつきます。

この快適さにどっぷりつかってしまった今、すべてが当たり前となり、その当たり前の基準が年々上がっているのが実感としてあります。

少し前にはなかったものが当たり前になってしまい、より快適なものが出てくるとまた当たり前になる。

10年前の当り前と現在の当り前は随分と基準が上がったように思います。

この利便性のおかげで、僕らの生活の質は上がり、時間は短縮され、その時間を有効に使うことができている。

これはすごく大切な事で、特に時間を有効に使えることに関しては、僕も利便性の向上にあやかっています。

ただ、この利便性を手放した時、僕は生きて行けるのか?

ときどき、すごく不安になることがあります。

これがなかったらどうしよう。あれがなかったらなにもできない。

利便性を追求するあまり、僕たちは「自己完結できる力」と「何にも依存しない力」を失っているように感じます。

「自己完結できる力」とは、言い換えれば自分でやりぬく力、生き抜く力の事です。

「何にも依存しない力」とは、何かが無くなってしまうとお手上げになってしまうのではなく、別の何かで補完できる力の事です。

例えば、災害時に電気が止まった時や、水道が止まった時。

僕たちは自分の無力さとたくさんの物に依存していたことをまざまざと思い知らされます。

どんな状況に置かれても、僕は家族や大切な人を守る責任があります。

その時に何もできない、おろおろする自分を想像するだけで、恐ろしいし、むかつきます。

そして、それは子どもたちにも言えることで、電気がつかないことや水が出ないことで、うろたえてしまってはいけません。

災害に限らず、今ある利便性と快適さを手放しても生きて行けるのかを僕は常に意識して、普段の生活と向き合うようにしています。

 

不便を楽しむ

とはいえ、僕も現在の快適な生活にどっぷりつかっているので、なかなか自分で意識しないといざという時にうろたえると思います。

そこで僕は生活の中に敢えて不便を入れるようにしています。

ここでは子どもたちの生活に意識的に取り入れている、ちょっとした不便の紹介です。

まずはトイレ。

うちのトイレは外にあり、暗い階段を抜けないとトイレに行けません。

これ、子どもにとってはすごく重要です。

現在の子どもは、暗闇を極端に恐れます。

だって、家の中でも外でも必ずと言っていいほど何かしらの明かりに包まれていますから。

この暗闇と向き合うことは、僕はすごく重要なことだと思っています。

暗闇は心を恐怖で支配し、冷静な判断を著しく奪います。

普段の生活に一切の明かりの無い、暗闇を入れるだけでも、子どもは強くなります。

あと、スマホやゲームなどの無いことで遊ぶ時間を必ず作ること。

あ、僕はスマホやゲームはけしからん!とは思っていません。

スマホやタブレットなどのデジタルにも早い内から、ガンガン触ってほしいと思いますし、ゲームで子どもがおかしくなるとも思っていません。

ただ、それに偏るのが問題なだけで、僕は必ず外遊びとできるだけ道具を使わない遊びの時間を入れるようにしています。

外遊びはやはり、心と体を作る基本だと思います。

ここを深堀すると話の趣旨がずれてしまうので、やめておきます。

何もない所で遊ぶことで、受動的な遊びが能動的になり、少ないものから発想できる力がつきます。

他にもいろいろありますが、こうして意識的に不便を取り入れるだけでも、いざという時の生きる力、サバイバル力が身につきます。

山にこもり、俗世との関わりを一切断ち、仙人のような生活を勧めているわけではありません。(それに近い生活だという事は否定しません…。)

普段の生活にちょっとだけ意識して不便を取り入れてみることをお勧めします。

 

最後に

僕は行き過ぎた便利は不便だと思っています。

利便性が上がれば上がるほど、僕たちは快適な生活を送ることができています。

一方で、人間本来に備わった生きる力と言うか動物的な勘を衰えさせていると思っています。

ただ、すべての利便性を否定しているのではなく、行き過ぎた利便性は生きる力を奪い、いざという時の判断や決断を鈍らせてしまうという事です。

僕には守るべき人、物があります。

それがどんな状況であっても、僕は守り抜かなくてはいけません。

それは子どもたちも同じです。

自らの命を守り、大人になった時に大切な人を守るため。

そのための力を子どもたちにはつけてもらいたい。

それは普段の生活に不便を意識的に取り入れることで、十分身につくと思います。

一緒に不便を楽しみましょう!

 

 

 

親は子どもにとっての安心基地。わが家の場合。

世に溢れる子育て論。

3才までに〇〇しよう!東大ママの子育て論。

基本、気にしなくて大丈夫だと思います。

気にしなくてもいいというか、子育ては千差万別で、正解なんかないのだから、ふーん。そんな考えもあるんだねー。でいいと思います。

そんな僕が子育てで大切にしていること、特に夫婦で気をつけていることのお話です。

ナッキーの子育て論!夫婦編!

ふーん。そだねー。的にお聞きくださいませ。

 

夫婦ってなんなのか?

いきなり何をと思いますが、夫婦って不思議な関係だと思いませんか?

僕は子どもと一緒に過ごすことに何の違和感と言うか、不思議さは感じません。

だって、目の前にいるのはわが子だから。

でも、夫婦ってなんなんでしょうね?

目の前にいるのは、他人の女性です。

運命なのか?ただの偶然なのか?

ちょっとしたきっかけで、出会い、同じ時間を過ごし、恋愛し、結婚し、子どもが生まれ、育てる。

僕は妻といると、ときどきそんな不思議な感覚になることがあります。僕だけかもしれませんが。

夫婦は運命共同体だとか、人生の伴侶だとかいろんな言葉に収められると思いますが、僕はいまだ答えが出ていません。

ただ、妻のことが大好きですし、一緒にいて楽しいです。

そして、幸せにしたいと思っています。

もう、本当にそれだけですね。

夫婦仲良くが与える安心感

親の形は様々です。夫婦であったり、母親だけであったり、父親だけであったり、実の親じゃなかったり…。

別にどんな形であっても、豊かで幸せな子育てはできると思います。

僕は夫婦と言う形で子育てをしているだけです。

ただ、子育ては人生の一部であって、目的ではありません。

子どもは親を選べないと言いますが、僕は妻を選んで夫婦になりました。それは妻も同じです。(え?違うかな?)

子どもと過ごす時間よりも、圧倒的に妻と過ごす時間が人生では多いのです。

それは、夫婦と言う形を保ち続ければの話ですが・・・。

あ、お別れする選択もありだと思います。

僕も一緒にいるのがお互いに苦痛になれば、お別れしてもいいと思っています。

僕の場合は、もしお別れする場合はそれが理由の時だけですね。

後は、妻のやりたいことに僕の存在が必要ない時と他に新しいパートナーが…。(結構、理由あるな・・・。)

今のところ大丈夫です!うん。

前置きが長くなりましたが、夫婦と言う形で子育てをしているなら、僕は夫婦仲良くが一番大切だと思います。

もし、子どもを育てることが目的で夫婦の形を保つくらいなら、僕は夫婦である必要はないと思います。

僕は妻とずっと一緒に人生を歩んでいきたいと思っているので、子育てはその一部分だと思っています。

だから、喧嘩をすることももちろんありますが、妻とは仲良しです。

子どもたちと妻の取り合いをするぐらいの関係です。(いいのかそれで?)

夫婦が仲良くしているだけで、子どもにも不思議と安心感が広がっているのが実感としてあります。

この安心感は子どもにとっては何より大切なことだと思っています。

別に子どものために仲良くしているわけじゃないんですが。

 

親は子どもにとって安心基地であればいい

夫婦が仲が良ければ、子どもは安心感を得られる。

これは自信を持って言えます。

そして、仲が良ければ、会話が増える、笑顔が増える、悪口が出てこない・・・などなど。

自然と子育てしやすい環境が整います。

じゃあ、どうすれば夫婦仲良くいられるのか的な事は僕より素晴らしいお父さんたちがたくさんいるので、僕は言えません。

一つだけ言うなら、僕は妻のことが大好きなだけです。妻がどうなのかは知りません。

親が仲良しでいること。安心感を得られる存在であること。

それが、子育てをする上での大前提だと思います。

親が安心感を与えられる存在であれば、子どもは親から離れることに不安を感じなくなります。

つまり、チャレンジや冒険をすることに積極的になります。

僕はこの自分からチャレンジや冒険することが子どもにとって何よりも大切な事だと思っています。

自発的な行動からしか学ぶことはないとすら思っています。

僕は極端なので、話半分で聞いていただければと思います。

子どもの自発的な行動の裏には必ず、安心基地の存在が不可欠です。

子どもは戻れる場所、安心して過ごせる場所があるからチャレンジできます。

それが親の存在であるのは言うまでもありません。

そして、その親が夫婦であるならば、夫婦が仲良く、お互いを大切にしていることが全てです。

いずれ子どもが大きくなり、世の中に一人で歩みだすとき。

そのチャレンジと冒険から得られた学び、親からもらった安心感は必ず力強く生きていくためのパワーになります。

だから、親が夫婦と言う形であるならば夫婦は底抜けに仲良しでいること。

その存在が子どもにとっての安心基地であることが大切です。

 

最後に

ここまでは、夫婦としての親の在り方と言うか、夫婦で子育てする場合の話をしました。

ただ、子育てする環境は各家庭で違いますので、それぞれの家族の形があると思います。

家族の形はそれぞれでも、親(大人)が子どもを育てるというは、子どもがいる以上、共通したことです。

そして、子どもは共通して、安心できる場所、安心基地を必要としています。

自立した大人になるためには、自発的なチャレンジと冒険が不可欠である以上、安心基地である大人の存在は欠かせません。

安心基地がない限り、子どもは自分の足で歩きだすことができません。

子どもは僅かな安心を逃がさないために、逆に親への執着が増します。

そのスパイラルに入ると、不安が不安を呼び、親も子どもに依存や執着をしてしまい、悪い形での相互依存を作ってしまいます。

もし、一人で苦しんでいる親がいるならば、誰かを頼っていいと思います。

頼る存在は必ずあるはずです。

そして、まずは自分が少しでも安心して、笑うことができれば、子どもは安心できます。

大人だって安心基地が必要です。

僕はありがたいことにその存在が妻です。

だから、いろんなことにチャレンジできるし、自分のやりたいことをできているのだと思います。

それじゃあ、妻の負担が多いやん!

たしかに。だから僕も妻にとっての安心基地であろうと思います。

そして、依存し合う関係ではなく、自立した二人が支え合い、夫婦と言う形で仲良くして行きたいと思います。

それが、子どもにとっての安心基地になるなら、僕たち夫婦は楽しく、仲良く過ごしていきたいと思います。