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もしも生まれ変わったら

僕は生まれ変わりは信じませんが、生まれ変わったら何になりたいかは考えます。

もう一度自分として生まれたいのか?いやいや。やっぱり、ジャニーズの誰かみたいにモテモテのイケメンに生まれ変わるか…。

そうやって、生まれ変わるなら何になりたいかをよく考えます。

逆にもし、カマキリとかに生まれ変わったらどうしよう…とか、考えてしまいます。(く、食われる。)

そんな、妄想癖強めの僕が生まれ変わるなら…そんなお話です。

 

女子として生まれ変わるなら

もし、生まれ変わって僕が女子になっていたら。

どうしよう?まず、知りたいのは男子を好きになる気持ちですね。

女子になった僕…私はどんな男子を好きになるのか?男子のどんなところにドキドキするのか?

きっと、永遠に謎の方が現世は幸せやと思いますが来世が女子ならすごく興味があります。

そして、お化粧をしたり、髪型を気にしたりするようになるのだろうか?

永遠の謎である、ネイルアートを楽しむ心が芽生えるのだろうか?

なぜ女子はトイレに一人で行けないのか?

「ねえ!あれかわいくない?かわいいよね?」と、やたら共感を求めるのか?

カフェオレを飲んだ後に、小刻みに揺れる意味は何なのか?

まず、男子からすれば謎の多い女子の行動の意味と気持ちを知ってみたいです。

そして、女子になってやってみたいのは、冬の寒い日に彼氏がポケットに手を入れているところに僕…私の手を入れて、彼氏の方を見てニコってするあれやってみたいです。

・・・あ、これはやってほしいと思う男子目線の願望か。

あとは、あんなことやこんなこと。知りたいことがたくさんありますが、ここでは発言を控えさせていただきます。

 

カマキリに生まれ変わったら

まじで!俺カマキリに生まれ変わったんか!・・・もう、未来見えてるやん。

カマキリに生まれ変わった瞬間、僕はまず人生(カマキリ生?)に絶望をします。

絶望はするんでしょうが、種を残すために、見ることのないわが子のために自分が犠牲になることを受け入れる日が来るのでしょう…。

その、未来が分かった状態でその瞬間を生きる選択を与えられているのか?

それとも、自分が食われるとは知らず、直前になってメスから「いや。私と結ばれたなら、あなたを食らうから。」「え?まじ?」って、なって否応なしに食われるのか?

その辺のオスのカマキリの真実を知りたいです。…いや知りたくないかも。

この、メスがオスを食べるというシステムをどこで思いつき、種を残す手段として取り入れるようになったのか。

合理的に考えれば納得できる部分もありますが、本人たちの気持ちはどうなのか?その生き方に納得しているのか?

これは生まれ変わったらと言うより、ただ単にカマキリへの好奇心の問題になって来てるな・・・。

 

生まれ変わりを選べるなら

もし、自分で生まれ変わりを自分で選べるとしたら。

僕は鳥になりたいです。できれば鷹かカラスがいいです。

スズメとかセキレイのような小鳥は嫌です。何か飛び方が忙しいし、敵におびえながら生きてるのがしんどそうです。

鷹。僕は福岡出身で昔からソフトバンクホークスのファンですが、それは関係ありません。

あの鷹の飛び方や、たたずまいが大好きです。

威風堂々としていて、まさに鳥の王様と言う感じ。眼光鋭いまなざしや、エサを仕留めるときのかっこよさがたまりません。

いつも高い所から下の世界を俯瞰していて、まるですべてを悟ったような…。

僕は鷹になりたい。

一方でカラスはどうか。

カラスは逆にあの奔放さと自由さがたまりません。

人から疎まれる存在でも、したたかに人間世界に溶け込み生きる。

その見た目や鳴き声から、決して好かれることはないけど、人から狩られるわけでもない。天敵も少ない。

なんだか、あのしたたかさを持ちながら、自分の生き方を貫いてる感じがかっこいいです。

僕はカラスになりたい。

 

最後に

僕は生まれ変わりは信じていないので、今を精一杯生きることをモットーにしています。

それは人に対してもそうなので、生まれ変わったら…なんて思わず、今を大切に向き合います。

理不尽な世の中で、生まれ変わりを信じないとやるせない事も溢れていますが、僕は信じません。

もし、僕が誰かの生まれ変わりだとしても、僕は僕の人生を生きます。

そして、この世を去るときには「やりきったぜ!さいなら!」と去りたいです。

でも、生まれ変わったら何になりたいかを想像(妄想)するのは超楽しいんです。

とりあえず、目の前にいる生き物の気持ちを自分なりに考えるのが僕の癖です。

なぜこいつはこんな生き方を選んだのか?どんな気持ちで生きているのか?

到底理解できない生き物もいますが、それは人間同士も同じですもんね。

そうして、想像力(妄想力)を膨らますことは、日常をちょっと楽しくするので、おすすめです。

皆さんも、ぜひ生まれ変わったら何になるを想像して見てください。

まじ楽しいですよ。

 

人を尊敬しても崇拝はしない

僕は尊敬している人がたくさんいます。

極端に言うと、子どもでも大人でも、ほとんどの人を尊敬しています。

ただ、絶対に特定の誰かを「崇拝」はしません。

もちろん、生き方の指針となる人はいますが、熱狂的になったり、その人の言うことがすべてだと思わないようにしています。

誰かを「崇拝」するという事はその誰かに「依存」すること。

その誰かの言う事がすべて正しいと思えてくる。

それは自分で考えることを放棄したのと同じです。

 

僕が尊敬する人

僕には尊敬できる人がたくさんいます。

お世辞でもなんでもないのですが、僕は年齢や性別、立場とかも関係なく、ほとんどの人を尊敬しています。

もっと細かく言えば、自分にできないことができる人は本当に尊敬できます。

子どもであっても、サッカーのリフティングができる子。生き物の事に詳しい子。身体がめっちゃ柔らかい子。

純粋に「すげーな!おい!」と思います。まじリスペクトです。・・・いや、リスペクトって言い方好きじゃないな。心から尊敬します。

他の業種の人のいろんな話を聞くのも好きだし、若者の夢や想いを聞くのも好きです。

「私、特技がないんです。」と言う方もいますが、僕からすると「いや。あなたすごいですよ。」と思える方ばかりです。

素直に受け止める

尊敬はまず、素直さから始まるんだと思います。

その人ができることを純粋に「すご!」と思える素直さがあれば、それは尊敬に変わります。

人間関係を保っていく中で、尊敬の心がなければいつかは離れていきます。

僕は尊敬できる人としかお付き合いできません。

尊敬できない人と一緒にいるのは、僕にとっては苦痛な時間でしかないし、上辺の付き合いというのが嫌いです。

でも、素直に「すご!」と思えることが多いので、ほとんどの方と尊敬を前提としたお付き合いができています。

僕は尊敬し合わなくても大丈夫です。僕が相手に尊敬の心を持っていれば、相手が僕をどう思っていてもあんまり関係ありません。

人を尊敬するという事は素直に受け止める心が大切で、相手を尊敬できれば、相手が自分をどう思っているのかも気にならなくなります。

そうすれば、人間関係の悩みはほとんどなくなります。

 

人を崇拝する怖さ

世にはカリスマと言われる人がたくさんいます。

そして、SNSの発達で、そのカリスマの思考や想いをすぐに聞くことができます。

名のある有名人もツイッターで、自分なりの考えを発信している人が多くなってきました。

僕も何人かは有名な方をフォローしていますが、決して崇拝はしません。

飛びぬけた結果を出した人達なので、言葉には説得力もあるし、影響力もあります。

でも、それをすべて自分に当てはめることはできませんし、納得できないこともあります。

僕はあまりたくさんの有名人はフォローせず、本当に心からすごいと思う人だけフォローしています。

そして、その人たちを僕は崇拝はしません。

崇拝することは、その人が右と言えば右、左と言えば左。つまり、自分の考え=その人の考えとなり、この状態は思考停止と同じです。

また、特定の誰かを崇拝していなくても、有名人だけの言葉を切り取って、自分の考えのように述べているのも同じ状態です。

有名人に限らず、小さなコミュニティーでも、影響力のある人や力のある人だけを持ち上げて、右向け右になるのが僕は恐く感じます。

これは素直さとは逆の考えになるかもしれませんが、人の言葉をうのみにせず、必ず自分の言葉として考え、意味を理解することが大切だと思います。

人を崇拝するあまり、人の考えが自分の考えと思い込んでしまうこと。思考停止になるのが一番怖いことと僕は思っています。

 

自分の軸を持つ

僕が有名人や影響力のある人をフォローする理由は、自分の中の軸を太くするためです。

新しい考えを取り入れることも大切ですが、言葉尻ばかりを追っかけてしまい、軸がブレてしまっては意味がありません。

僕の中では、自分を変えると言うよりも、自分の中の軸を太くするために、有名人や影響力のある人の考えを聞きます。

また、僕の周りにいる尊敬できる人達の考えは、より身近で、僕の思い込みで硬くなった頭に柔らかさを与えてくれます。

軸を太くしながらも硬くならず、柔軟に考える。

そして何より、身近な人の言葉には温度があります。

直接僕に向けてくれる言葉には、多くの人に向けて発されたメッセージよりも、温かさを感じます。

僕はこの人の温かさにどれだけ救われたか分かりません。

僕自身に向けられた言葉には、僕への想いが詰まっているので、どんな言葉でも本当にうれしいです。

だからこそ、僕は人を尊敬はしますが、崇拝はしません。

僕は人との出会いに無駄なことなどない。と思っています。

でも、人との出会いを無駄にするのもしないのも結局は自分次第なのだと思います。

あなたに会えてよかった。

僕は出会った、繋がってくれた人全員にそう言いたいと思っています。

 

最後に

特定の誰かを崇拝するという事は、僕は思考停止と同義。そして、不誠実だと思っています。

自分の考えを持った上で、その人の考えを聞き、そして自分の日常をより良くしていくこと、自分を成長させることが何より大切です。

崇拝する人に認めてもらおう、近づこうとすることは視野を狭くします。

人に憧れを持って、その人のようになりたいと思うことは大切だと思いますが、それは尊敬のもとで成り立つことだと思います。

僕はいつも考えすぎなのかもしれませんが、今繋がってくれる人を大切にしたいです。

その大切さは尊敬のもとで成り立ち、繋がってくれた人全員に「あなたと出会えてよかったです。」と胸を張って言いたいです。

本当に相手を思うなら、崇拝してすべてを鵜のみにするのではなく、尊敬して自己成長につなげることが本当の意味での相手への敬意であり誠実さだと思います。

僕が一番好きな動物は…

今日は僕の好きな動物ランキングを発表したいと思います。

誰が興味あんねん!と言う内容ですが、僕の好きな動物ベスト3を発表します。

きっと動物の話からいい感じの話に…・。

いえ。ただ単に僕の好きな動物を発表します。それだけです。

 

第3位 アヒル

アヒル。かわいくないですか?

僕はアヒルが大好きです。あの歩く姿が何とも言えません。

保険会社は某ア〇ラックにしようかと思うほどです。してませんけど。

アヒルを含めて水鳥の体つきや仕草が僕的には萌えます。

特に水辺から陸に上がるときに、あんなに優雅に泳いでいたのに、突然ペタペタとどんくさくなる。

そして、アヒルの最大の萌えポイントはシッポ!シッポ?お尻です!

あの、歩くときにときどきフリフリするシッポ・・・おしりがたまりません。

うちの乗馬クラブ ペピーズにアヒルが来る日はそう遠くはないかもしれません。

 

第2位 猫

なんだよ!ありきたりやな!

犬派か猫派か?僕は派閥に分けられるのが嫌いなので、両方派ですが、犬より猫が好きです。(猫派やん!)

猫の好きなところは人との距離感。

犬の「ご主人!もうあっしはご主人なしでは生きていけませんぜ!一生ついていきまっせ!」感があまり好きじゃありません。

一方、猫は「まあ、エサをくれるから甘えておくけど。別にあなたがいなくても私は一人で生きていけるわ。」感が好きです。

そして、撫でたときに言う、あのゴロゴロ。

嬉しいときにゴロゴロ言うとか意味わかんなくないですか?

あと、エサをあげる前とあげた後のギャップよ。エサが欲しい時はあんなに甘えてくるのに、満たされたとたんに「はい。終了。」みたいな。

人間で言えば、あの・・・やめとこう。

そして、猫の一番の萌えポイントは肉球。

僕はピンクの肉球が大好きです。黒よりも断然ピンクです。

あの肉球をポケットに入れて、ずっとモミモミしていたいです。(サイコパス!)

猫飼いたい。猫飼いたい。猫飼いたい。猫飼いたい。

 

第1位 〇〇

栄えある第1位は・・・・・・カバです!!カバ!!!!

カバは最高です。カバが好きになったのは、長崎にあるバイオパークと言う、動物園に行ったとき。

そこで、カバにキャベツをあげる体験ができるのですが、人間がキャベツを持つと、大きな口を開けて「ちょうだい。」アピールをします。

初めてその仕草を見たとき、僕のハートは打ち抜かれました。

もうぞっこんです。

あの大きな口。まばらに生えた歯。

短い脚につぶらな瞳。

そして、うんこをするときにシッポでまき散らすという、謎のシステム!

しかも、あの見た目とは裏腹に年間に数十人の人間の命を奪うという獰猛さ。

まじ、ギャップ萌えです。(サイコパス!)

もし、動物に関わる仕事で、馬以外を選ぶなら、意地でもカバの飼育員になります。

全ての動物の中で断トツカバが好きです。2位との差はかなりあります。

ぶっちぎりでカバが好きです。

 

最後に

え?馬は?

僕、そこまで馬は好きじゃありません。

好きじゃないというと語弊がありますが、今の仕事をなしにして、単純に生き物として好きかと言われれば、まあまあです。

ランキング的には7位くらいになります。

もし、馬をカバほど愛してしまえば、仕事にできないと思います。

僕が馬を仕事にしているのは、子どもたちにとっての学びの教材に馬が最適で最高だと思っているからです。

僕は馬との関わりを止めても、子どもとの関わりを止めることはありません。

僕は子どもたちが豊かで安心して過ごせる社会を実現したいと思っています。

その実現のためのパートナーが馬なので、好き嫌いでは計れません。

好き嫌いだけの基準で計るなら、断然カバです。カバが好きです。

それが言いたかっただけのブログです。

 

 

 

 

 

 

 

 

子どもの心のブロックが外れると…

僕の乗馬クラブ「ペピーズホースフィールド」では、毎年夏休みに2泊3日の子ども乗馬キャンプをしています。

おかげさまで、毎年たくさんのお申込みをいただき、住んでる場所や年齢の違う子どもたちが集まります。

親元から離れて、2泊3日のキャンプ。

お父さん、お母さん。

お父さんもお母さんも知らないお子さんの姿を僕は知っています。

そんなお話です。

 

子どもは人格を使い分ける

僕はわが子のすべてを知っているのだろうか…。

いや、絶対知らないことがたくさんあります。

それは、長年、夏休みのキャンプに参加している子を見てきて断言できます。

親は、わが子のことをすべて知っていると思いがちです。僕もこの仕事をしていなければ、そう思っていました。

でも、キャンプに参加している子の多くは、親の前では見せない姿を僕に見せてくれます。

それがちょっと快感だったり。

子どもは親の前では親が望む子ども像を演じていますよ。絶対。

子どもは大人に合わせて、ちゃんと人格を使い分けています。

振れ幅の差はあるにせよ、ほとんどの子が親の前での姿と僕の前での姿は別の人格です。

「うちの子は、こんな子なんで。」

残念ながら、全く逆の場合が多いです。

それは、お父さんお母さんの思い込みかもしれません。

お父さんお母さんの前にいる子どもの姿は、お父さんお母さんバージョンの可能性が大です。

子どもは低学年でもちゃんと大人に合わせて人格を使い分けています。

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親が思うわが子の姿

親が見ている子どもの姿は、かなり親の希望や期待が入っています。

そして、おおむね親の希望通りに行動すれば、怒られることが少なくなることを子どもは本能的に察します。

特に心の成長が早い女の子は、その傾向が強いです。

表「お母さん、私がんばるね!」 裏(いやいや、超めんどいんですけど。)

表「お父さん、プレゼントありがとう!」 裏(これじゃないんだよね。私が欲しいの。)

ちょっと例が極端かもしれませんが、親が喜ぶならしょうがねえな的に振舞っていることが意外と多いと思います。

僕も無意識に子どもに自分の希望を押し付けてしまい、思い込みで子どもを決めつけているかもしれません。

うちの親で言うなら、いまだに僕がミートソーススパゲッティ―が大好物だと思っていますから。

好きですが、そこまでじゃありません。

父さん母さん、ここでカミングアウトしておきます。

そんな感じで、親が見ている子どもの姿には親の希望と思い込みがかなり含まれていて、子どもは家庭を平穏にするために無意識に演技をしている場合が少なくありません。

 

子どもの心のブロックを外す

2泊3日の乗馬キャンプでは、僕は礼儀や規律などは重んじません。

最低限のルールはありますが、基本、世の中で子どもがやってはいけないと言われることをやります。

つまり、学校や家庭ではしてはいけないことを敢えてやります。

ルールを守る大切さよりも、ルールを破る楽しさを教えます。(これ、言っちゃっていいのかな?)

例えば、暗くなってから遊ぶ。あとは寝る前に本気のまくら投げをする。

スイカの種をそこらじゅうに、飛ばしまくる。大人とどつきあいをする。(加減してますよ!もちろん。・・・大人は。)などなど。

そうやって、おそらく普段はいけないと言われているルールをちょっと破ってみる。

しかも、お父さんお母さんが見てない所でそれをやる。

楽しいですよ。楽しくないわけがりません。ルールを破るって、マジで楽しいんです。

ただ、最低限のルールは、人を傷つけない事、馬のことを最優先すること、時間を守ること。

これ以外は、よほどの危険を共わない限り、何でもありにしています。

もし、子どもに礼節や規律を学ばせたいと思っている方がいれば、うちのキャンプは参加されない方がいいと思います。

このルールを破る快感を手に入れた子どもたちは、水を得た魚のように生き生きとしています。

ただ、子どもによっては「いや、私は他の子とは違って大人だから。」と、はしゃぐ子どもたちを遠目で見る子もいます。

この子の心のブロックはなかなか強固なものですが、どんなに大人ぶっても、子どもは子どもです。

楽しいことが嫌いな子はこの世にいません。断言できます。

強弱は多少ありますが、みんな楽しいことが好きです。

普段布団の上でははしゃいではいけない。と言われているのに、布団の上でのまくら投げやプロレスごっこが始まる。

最初は戸惑うし、遠目に見ている子が何人かいますが、楽しい方に引っ張られるのが子どもの性。

普段は禁止されていることを全力で楽しんでいる友達の姿。

この大人はいったい何なんだ?注意するどころか、煽ってるやん。いいのか?私も行っていいのか?

子どもの心が混乱し始めます。この混乱が始まれば、もうこっちのものです。まもなくダムが決壊します。

そして、まくらが飛んできて、大人に投げつけられるチャンスが巡って来たとき・・・。

「うわああああああ!!!!」

はい。ダム決壊。

寝る前にはヒーリングミュージック説を根底からひっくり返す、アドレナリンフルスロットル。

してはけないことをする罪悪感をちょっぴり抱くのも、また楽しさを増幅させます。

僕は、この場はルールを破ることを許され、親の目を気にしなくていい状態が子どもの心のブロックを外すことに繋がり、子どもらしさを発揮できると思っています。

 

最後に

私たち親は、子どもに希望を抱き、子どものすべてを知っていると勘違いすることがあります。

そして、子どもは無意識に、親の希望通りに動けば問題が起きないことを体得してしまいます。

それは、大人の世界でもあることなので、決して悪いことではないと思いますが、あまりにその傾向が強いと、子どもは人の目を気にするあまり、自分のやりたいことが分からなくなってきます。

子どもの内は、最低限のルールだけ決めて、枝葉の細かいルールは破ることも大切だと思います。

そうして、自分の本心どおりに動くことの喜びと楽しさを体感すれば、早い内に子どもは自分で本当にやりたいことを見つけて、行動に移すことができます。

それが親の望む子どもの姿とは違ったとしても、子どもが自分で決めて、自分のやりたいことのために行動することは、子ども自身にとっては最高の人生です。

そのためには、子どもの心のブロックを外せる場や環境があることが大切だと思います。

家でも学校でもない、第3の場所。

僕はそんな場所を子どもたちに届けたいと思います。

そんな素敵な体験ができる 夏休みこども乗馬キャンプはこちら!

・・・みたいな宣伝をしようと思いましたが、おかげ様ですべての回が満員となりました。

本当にありがたいことです。

さあ、夏が来る。今年もどんな出会いとドラマが待っているのか。楽しみです。

ペピーズホースフィールド

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人のせいにしない生き方

僕は人のせいにしたり、自分以外の何かのせいにすることが嫌いです。

嫌いと言いつつ、つい人のせいにしてしまう自分がいます。

そんな弱い僕は人のせいにできない状況に身を置くことで、すべて自分事とするようにしています。

人のせいにしない。

それは必ず自己成長につながる。

そんなお話です。

 

僕は人のせいにしまくっていた

人のせいにしない。…と言いつつ、僕は過去、人のせいにしまくってきました。

特に20代前半は自分の置かれている状況をすべて、会社や環境、社会のせいにしていました。

そんな僕がどんな行動をとっていたか?

20歳の僕は遅れてきた反抗期のように、髪を短髪の金髪にし、眉毛は今の半分。

パチスロにはまり、飲みに行けば会社の悪口ばかり言っていました。

それから・・・ここでは書けないような悪いことをたくさんしてきました。(法には触れていませんよ!・・・多分。)

結局、責任を自分外の何かに置くことで、自分と向き合う事、自己成長から逃げていたんです。

だって、それってすごく楽じゃないですか?

だって、でも、のオンパレード

人のせいにする人の特徴は「だって」「でも」が口癖です。

よく分かります。僕がそうだったからです。

人のせいにして、遅れた反抗期のような生活をしていた僕の口癖は「だって」「でも」でした。

なにかあれば、「だって、あれは社長が・・・・。」「でも、それは僕が悪いんじゃ・・・。」

マジむかつきます。今の僕からしたら、最もうざく、友達になりたくないやつです。

人のせいにして生きる人は会話の中に「だって」「でも」が多いです。

「だって」「でも」に続く言葉で良い言葉はありません。

唯一あるとすれば、

「だって私、あなたのこと愛しているから…。」

とか言われたときですかね。言われたことないけど。

(なお、画像と本文は関係ありません。)

 

ある子どもたちとの出会いが考えを変えていく

僕は訳あって、23歳の時に、とある乗馬クラブの責任者を任せられます。

弱冠23歳、今思えばようやったな・・・。

派遣という形で、任せられた乗馬クラブ。

そこはホースセラピーを行っている、発達障がいを持った子どもたちを対象とした乗馬クラブでした。

その頃、僕には発達障がいなど全く未知の領域で、子どもたちとどう接していいのか分かりませんでした。

言葉は悪いかもしれませんが、僕にとっては宇宙人のような存在でした。

この子たちとどう接していけばいいのか?

僕はとにかく毎日必死に手探り状態から、とことん子どもたちと向き合うようになりました。

徐々に・・・というより、自分に責任を置かざるを得ない状況になりました。

立場と環境で自分事に

発達障がいの子どもたちをケアする乗馬クラブを任されたことで、僕の意識は明らかに変わりました。

それまではずっと、人のせいにする人生を歩んできたのに、すべてを自分事としてとらえるようになりました。

このときはあまりに自分を追い込みすぎて、人生の底を経験するのですが、それはまた違う機会に・・・。

結局何が言いたいかと言うと、人のせいにせず、自分事にするためには立場と環境を変えるのが良いという事です。

これは僕なりのやり方ですが、人の心は弱いのでどうしてもそちら側に引っ張られてしまいます。

僕はそうです。

考え方や捉え方を変えようとしても、弱い方に引っ張られてしまって、なかなか自分を変えることができません。

そして、変わらない自分、変えきれない自分に絶望し、また人のせいにしてしまいます。

だから、僕は立場と環境で、自分事にせざるを得ない状況に追い込む方法を選択しました。

 

自分事にすることは自己成長の根源

なぜ、すべてを自分事にしなければいけないのか?

それは、すべてを自分事にすることが自分を成長させるための起点、根源になるからです。

人のせいにしている間は成長はありません。

僕が実際そうだったし、人のせいにする=自己正当化だからです。

自分が正しいと思っているという事は言い換えれば、それ以上成長する気はないということです。

成長する気がないのだから、成長するわけがありません。

人のせいにすることは自己成長を放棄すること。

僕はそう思っています。思っています…と言うより思えるようになりました。

これをすべて自分事、すべての責任を自分に置くとどうなるのか?

自分に責任を置く=自己否定です。

ここでいう自己否定は自分を卑下する自己否定ではなく、もっとできる自分を設定して、上から俯瞰した状態での自己否定です。

なんでこれはうまくいかなかったんだ?そうか、俺のこのやり方が良くなかったんだな。次はこうしよう。

責任を自分に置けば、すべての発想が自分発になる。

自分発の発想から起こす行動はまた自分事として反省し、改善。そしてまた行動。

このサイクルの中にしか、自分を成長させるチャンスはありません。

もう言い切れます。

自己成長は自分に責任を置かない限り実現しません。

それは人のせいにする弱さを持った僕だからこそ、断言できます。

 

最後に

僕は人生の目的の大半は自己成長のためだと思っています。

世のため人のため。

僕ももちろん、そういった志を胸に持っていますが、それすらも自己成長のためです。

だから、弱い自分がいることを知り、その上で独立し、立場と環境で自分の逃げ場を断ちました。

やりたいこと、実現したいこと、守りたいもの。

僕にはたくさんありますが、僕自身が成長しない限り実現できません。

人間として、経営者として、父親として、社会人として。

僕はすべてを自分事と捉え、人のせいにせず、自分を成長させていきます。

短髪金髪の眉毛なしパチスロどはまり・・・ピーピー(ここでは言えない…。)の言い訳野郎でも、変われました。

人のせいにしない。すべては自分事に。

偉そうに言ってますが、本当にこれが自己成長の根源だと思います。

 

 

 

 

自分が好きなことをできるのは…

僕は毎日、自分のやりたいこと、自分の想いを叶えるために全力を傾けられています。

ときには投げ出したくなる時もありますが、本当に自分のやりたいことに全力を注げることに感謝しています。

それは僕を支えてくれる多くの人のおかげ。なのですが、一番は妻のおかげです。

妻は僕のやることに一度も反対したことはありません。

僕にとっての一番の財産は、そこです。

こんだけ無茶苦茶してんのに、文句ひとつ言いません。むしろ楽しんでくれています。

まだまだ経済的に余裕があるわけじゃない。

種まきにすべて私財を投じてきたので、新婚旅行も行ってないし、結婚指輪も買ってない。

車だっておんぼろだし、住まいは馬小屋の2階。

妻は我慢なんてしてない。楽しいよ。と言ってくれますが、その言葉に甘えてはいけない。

芽の生えない種もあるけど、少しずつ芽が出てきて育ってきている。

それが実になり、収穫できるまでに時間がかかる道を選んできたけど、そろそろ圧倒的な結果を出さなきゃいけない。

それは、自分自身が大きくなることと、経済的自由を手に入れること。

自分の叶えたい思いはたくさんあるけど、今まで一番そばにいる妻のことを疎かにしてきました。

世の中お金じゃないよ。

なんて甘ったれた言葉を自分の中から消して、圧倒的に稼いでから、お金を語れるようになる。

妻の好きなものを買ってあげたいし、結婚指輪も、新婚旅行も必ず連れて行く。

先日、大阪の街中に行く機会があったのですが、そこには高級ブランドのお店が立ち並んでいました。

その一軒のお店。プラダかグッチか忘れましたが、ガラス張りの店内の中に妻と同じぐらいの女性が、うちの子どもと同じ年齢くらいの子と一緒にバッグを選んでいました。

妻はブランド品には一切興味ないので、そんな生活を望んでいるわけではないと思います。

でも、何や分からんけど、久々に悔しくて涙がポロポロ出ました。

事業に突っ込んだお金があれば、新築の頭金にもなったし、それなりの車だって乗れた。

良い条件の引き抜きもあったし、経済的にはかなり楽な生活も用意されていた。

それを、僕のやり遂げたいことのためだけに、すべて蹴っ飛ばして、今の道を選んだ。

それってかっこいいように聞こえますが、それ以上の生活をさせてあげられなければ、かっこよくもなんともないです。

ただの自己満足。それで終わってしまいます。

昔から、何でもできるようになるまで時間のかかっていた僕。

それは大人になっても同じのようで、相変わらず結果が出るまで時間がかかる。

そんなゆっくりな僕に愛想つかさず、支えてくれる妻。

もう言葉でのありがとうはいい。結果で返すよ。

でも、やっぱり言います。

いつも支えてくれてありがとう。側にいてくれてありがとう。これからもよろしく。

 

子どもの失敗体験は大切なこと

子どもには成功体験を沢山させることが大切です。

それは、間違いないことで、多くの親御さんが実践されていると思います。

僕も子どもたちには小さな成功体験を積み重ねることを意識しています。

一方で、子どもの失敗体験はどのように捉えればいいのか?

僕は子どもにとって成功体験と同じくらいに失敗体験も必要だと思っています。

そんなお話です。

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なぜ成功体験が必要なのか?

子どもには成功体験を積み重ねることが必要。

それはなぜなのか?

よく、成功を積み重ねることで自信がつき、自己肯定感が高まると言われています。

この自己肯定感をどう考えるかで、意味が随分と変わってきます。

結局、自己肯定感ってなんなん?って思わないですか?

結構、フワッと意味をとらえてしまい。深く考えない。僕もそうでした。

でも、そこがフワッとしていると、なぜ成功体験が必要なのかが分からなくなってきます。

僕が思う自己肯定感ですが、それは自分のことすべてを肯定的に捉えること…とは少し違うと思っています。

僕が思う自己肯定とは、上手に自己否定を使えること。そのために、いつも先にいる自分をイメージすること。

子どもには成功体験を積み重ねることを日常的に意識しています。

 

失敗体験から学ぶことの大切さ

一方で失敗体験は必要ないのか?

僕は成功体験と同じくらい、失敗体験も必要だと思います。

先ほど言ったように、僕は自己肯定には、上手に自己否定を使うこと。が大切だと思っています。

失敗をすると、悔しいですよね?そして、同じ思いをしないように、改善、行動、努力をします。

その悔しさがあきらめない心と継続する原動力になります。

この悔しさとは、自己否定から来るものだと思います。

くそ!なんで僕はできないんだ!もっと練習すればよかった!弱い自分が嫌だ!

その悔しさは僕はすごく大切だと思います。

この悔しさ、つまり自己否定を上手に使うためには失敗体験はとても大切です。

そして、この上手な自己否定をするために大切なのが、いつも先にいる自分をイメージできることです。

僕には良い自己否定と悪い自己否定があると思っています。

良い自己否定とは先にいる出来る自分をイメージして、今を否定すること。

悪い自己否定とはできない自分を嘆き、卑下すること。

この、良い自己否定をするために、常にできる自分、先の自分をイメージすることが大切だと思っています。

今はできなくて悔しいけど、僕は本当はできる。今に見とけよ!ゴラァァァァッァアァァァァァァァァァァ!!!!

これです。

この良い自己否定できるようになれば、失敗から、反省⇒改善⇒行動⇒結果を継続し、諦めない心が身につきます。

それができるようになれば、どんな生き方を選択したとしても、必ず結果を出し、生き抜くことができると思っています。

そう考えると、失敗体験から学ぶことも沢山あります。

もちろん、失敗ばかりだと悪い自己否定に引っ張られてしまうので、子どもの内は成功体験も大切だと思います。

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ちゃんと失敗させる

基本、子どもが失敗や成功の体験をするには、親は邪魔をしないことです。

子どもが何かするときに、つい手助けをしたくなる。

子どもが泣く姿は見たくないし、落ち込む姿もみたくない。

僕もそうです。つい、子どものやることに、ころばぬ先の杖を与えてしまう。

それが親心なので仕方ないのですが、そこはグッとこらえて、子どもにはしっかりと失敗をさせた方がいいです。

それが、子ども自身が選択し、自分が決めて行動した結果の失敗であれば、その失敗は最高の失敗です。

ここから子どもは良い自己否定へとつながって、悔しい思いをし、諦めない心が育つ。

だから親のできることは、基本は子どもの邪魔をしないことです。

そして、邪魔をしないだけではなく、子どもが自発的に行動できる環境を与えてあげることも大切だと思います。

子どもが自発的に行動できる環境を与え、あとは見守る姿勢を貫けば、子どもはちゃんと失敗できます。

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もちろんそこからたくさんの成功体験も得ることができます。

自分で決めて行動し、失敗する。そして成功する。

親ができるのは、それができる環境を与えることと見守ること。これに尽きるのかな?と思っています。

ここで言う環境は習い事でも、遊びでもなんでもいいと思います。

親は選択肢を与えて、あとは子どもに選ばせる。そこがスタートですね。

 

最後に

子どもの成長に必要なことってたくさんありますが、その中でも、自己肯定感を高めることは大切な事の一つです。

ただ、親自身が、その自己肯定感の意味をあいまいに捉えていると、子どもにもあいまいに伝わってしまいます。

この自己肯定感の捉え方は親によって違うので、親それぞれが思う自己肯定感を明確にして、子どもに向き合っていれば良いと思います。

僕の思う自己肯定感は、上手に自己否定を使うこと。いつも先にいる、できる自分をイメージすること。この二つを持つことだと思っています。

その二つを子どもが持つことができれば、失敗して諦めることも、自分を卑下して、思考停止になってしまうこともありません。

自分で決めた行動に、反省し改善する。それが行動に繋がり、継続する。それが諦めない心の基軸となる。

それは子どもたちが大人になって、どんな生き方を選択しても、どのシチュエーションでも必要で大切なことです。

そのために、親は子どもが大人になることをイメージし、子どもが心の真ん中に軸を持ち、本当の自己肯定感を持つための行動をすることです。

難しいことではなく、子どもにそれらを経験できる場の選択肢を与え、見守ることができればいいのだと思います。

世の中には子どもに良さげなものや考え方が溢れていますが、良さげというあいまいなものに振り回されて疲れてしまわないように、親として子どもに伝えたいものをシンプルにして、あとはブレずに行動することが大切だと思います。

とはいえ、そんな僕もブレることはよくありますが、子どもには好きなことを選んで、生きて行って欲しいですね。

 

 

歌うことが好き

僕は歌うことが好きです。

そして、歌いだすと自分の世界に入るので、カラオケでは完全にヤバイ人です。

そして、男らしからぬハイトーンボイスが自慢です。ええ。

でも、小さいころは高い声をバカにされ、自分の声が大嫌いでした。

そんな僕が歌うことが大好きになった。

そんなお話です。

 

喘息に苦しんだ小学生時代

僕は小学生のころ、喘息がひどくて、2回ほど死に掛けたことがあります。

吸入器がお友達で、しょっちゅう病院でお世話になりました。

あの頃のことを思うと、両親には特に母親にはすごく迷惑をかけて申し訳なかったと思います。

そんな喘息発作オンパレードの僕に、ちょっとした転機が来ます。

当時、僕の担当をしていたお医者さんに喘息の改善に「水泳」か「合唱」を勧められました。

どちらも、呼吸器系を鍛えられ、呼吸の仕方も身につくとのこと。

正直、全然乗り気じゃなく、ただ泳ぐのだけは絶対に嫌だったので、消去法で「合唱」を選びました。

 

地元の合唱団に入る

僕の通っていた小学校の先生の一人が合唱団をやっていて、先生に声を掛けてもらったこともあり、その先生の合唱団に入団することになりました。

合唱自体をよく分かっていなかった僕は、言われるがままに合唱団に入団しましたが・・・。

「女子ばっかやん。」

男子は、僕を含めて二人。合唱団のメンバーが40人ほどなので、もうほぼ女子です。(ハーレムやん!)

少年少女合唱団。なのに、ほぼ少女でした。

僕の通っていた合唱団では「ソプラノ」「メゾソプラノ」「アルト」のパートに分かれていました。

ソプラノ=高音 メゾソプラノ=中音 アルト=低温

そう思っていいただければ大丈夫です。

たいての男子は「メゾソプラノ」か「アルト」になるのですが、僕は「ソプラノ」でした。

しかも、ソプラノの中でもさらに高い声が出る3人のうちの一人でした。

もののけ姫もビックリの超高音が出る、かなり珍しい男子でした。

 

合唱はスポーツ

合唱は歌を歌うばかりではありません。

練習の大半は発声練習で、この発声練習がなかなか過酷なのです。

合唱の基本は腹式呼吸。腹式呼吸をよりよくするために、腹筋を鍛えます。

そのため、発声練習のための腹筋運動や、発声練習では寝たまま足を上げて声出しをする(これが結構大変!)など、意外と体育会系なのです。

コンサートの前などには、泊まり込みの合宿があり、一日6時間以上合唱の練習をしたことがあります。

そのおかげか、僕の腹筋は小学生なのにプチシックスパックになっていました。

 

歌うことが自信に

女子みたい。とバカにされた自分の声があまり好きじゃなかった僕ですが、合唱を続けて行くうちに、自分の声に自信を持てるようになりました。

そして、お医者さんの言った通りなのか、喘息の発作もすこしずつ改善していきます。

高い声が出ることに快感を覚えるようになった僕は、歌うことで自信をつけて行きました。

体が弱く、チビでいじめられっ子だった僕にとって、人生で初めて自信を持てるものでした。

そして、一番自信をつけることになったのは、ミュージカルで主役をさせてもらったこと。

何百人の前でソロで歌を歌う。演じる。

また、そのミュージカルの練習の時に、ウィーン少年合唱団が来日しており、そこの校長先生が練習の視察に来てくれました。

あの、ウィーン少年合唱団ですよ?

そこで、校長先生の前で歌を披露したのですが、校長先生が本気で褒めてくれました。

リップサービスなどではなく、本気でです。

・・・言葉は分からなかったけど、通訳さんの話を聞かなくても、熱量が伝わってきました。

あの、ウィーン少年合唱団の校長先生がですよ?

その時の体験は僕に自信を与えてくれた、とても大切のものとなりました。

 

歌でまたチャレンジしたい

僕なりに声変りを迎え、合唱団は退団しましたが、37歳になった今でも歌うことが好きです。

そして、37歳のオッサンの割には高い声が出ます。

僕にとって、合唱団での歌との出会いが、人生で初めて自信を与えてくれました。

その経験は、今でも僕の生き方に影響を与えています。

歌うことが好きと言っても、車の中で熱唱するか、馬小屋で馬に向けてコンサートをするぐらいです。

そんな中、今年の2月、次男が「伊賀市子どもミュージカル」に出演し、小さな役でしたががんばって演じていました。

この「伊賀市子どもミュージカル」は年中から高校生までの子どもたちだけで構成されるミュージカルで、年に一回の公演のために前年の10月にオーディションを行い、毎週末、朝から夕方まで練習を重ねます。

これがとても良くて、心が震えるくらい感動します。

僕は小学校の時の自分と照らし合わせ、よく大勢の人の前で一人で歌えたなと、小学生の自分に感心していました。

あの、ひたむきで一生懸命だった自分を思い出させてくれました。

その時に、湧き出た感情は「もう一度、歌で表現してみたいな。」でした。

37歳のオッサンが歌で何を表現するのか?

小学生の時の合唱の時の経験以外は一切、歌や音楽の勉強をしていたわけではありません。

でも、歌で何か表現したい。

ずっと、馬と子どもたちの事しか頭になかった僕に、初めて芽生えた(・・・そうでもないか。)、独りよがりな感情でした。

 

最後に

さてさて、歌で何を表現する?って話ですが、今、いろいろ準備中です。

少しずつ出せるものから出して行こうと思います。

37歳。3児の父。甘いもの大好きのヒゲオッサン。

何を血迷ったのか、歌で何かを仕掛けて行こうとしている、変態です。

でも、人生で初めて僕に「自信」と言う大切なものを与えてくれた「歌」に恩返しがしたいんです。

一度きりしかない人生、たまにバカをさせてください。(たまに?)

少しずつ、出して行きますんで、ぜひ面白おかしく僕を見ていてください。

面白いことになりまっせ!ふふふ。(意味深)

最近ちょっと太ったかな…。

 

 

 

 

 

自分をさらして行く

僕はどんどん自分をさらして行こうと思っています。

自分の想い、考え、生き方、好きなもの、嫌いなもの、できるだけさらして行きたいと思っています。

もちろん、誰にも言えないことの一つや二つ(いや、もっとある。)はありますから、全部はさらせませんが、さらせるもんはさらして行こうと思っています。

僕は少し前まで、不言実行こそ大切で、結果こそ全てだと妄信していました。

もちろん、不言実行で結果を出す人はかっこいいと思いますし、今もそういう生き方を尊敬しています。

そして、結果を出すことも大切です。

ただ、不言実行と言うのは、あくまでも手段であって、結果を出すためには柔軟に手段は変えて行かなければいけません。

ここでいう結果とは、自己成長、自分の想いの実現、すべてにおいてです。

そんなお話です。

 

かっこつけていた自分

僕はかっこつけていました。おそらく、かっこつけていたんだと思います。

そして、世の中を少し、斜に構えて見ていたように思います。

夢や想いを語っている人を見ると「大した結果も出していないくせに…。」とか、「男ならだまって結果を出せばいい。」とか。

そんな、だいぶ上から目線の発想で、物事をとらえていました。

男なら不言実行。結果で人は納得する。

そう思い込み、人の話など聞かず、とにかく自分の信念だけを押し通そうとしていました。

まあ、それで結果が出ればよかったんでしょうけど、僕は完全に壁にぶち当たりました。

(もう、こんな感じでかっこつけてました。)

 

自分の限界を知る

思い込むと周りが見えなくなるタイプの巨人の星のような僕は、不言実行で結果を出すことに固執していました。

完全に意地を張っていたんです。

でも、世の中はよくできているもので、そこにはでかい壁が必ず待っています。

この壁をぶち破るほどのパワーの無い僕は、完全に壁の前で立ち往生します。

自分の想いばかり蓄積して、アウトプットできない。しようともしない。

周りの話など全く聞かない。興味もない。

勝手に煮詰まって、自爆寸前になっていました。

そんな状態で結果も出るわけなく、いろんな意味で横ばいな期間を過ごしてきました。

完全に迷路にはまっていました。

 

少しずつ想いを吐き出してみる

この不言実行かっこいい説にドはまりして、彷徨っていた僕ですが、徐々に変わっていきます。

保育園の保護者会の会長や、地域コミュニティーの代表、商工会の青年部支部長などなど、少しずつ役をもらえるようになり、人前で話す機会も増えてきました。

なにげなく、自分の思いや考えを話すと、思いのほか周りの人が反応してくれたり、応援してくれることに気づきました。

そして、その流れで、地元新聞の取材を受けたり、僕の話をわざわざ聞きに来てくれる人がいたり。

あれ?何か雰囲気変わって来たぞ。

(マジかよ?)

人に自分の思いを語るのに、恥ずかしさと言うかためらいを持っていた僕ですが、いざ話してみると小さな変化が生まれてくる。

それは、不言実行かっこいい説を妄信していた僕にとっては大きな変化でした。

 

不言実行から有言実行へ

そして、僕が不言実行から有言実行へ変わる出来事がありました。

それは昨年に行ったクラウドファンディングへの挑戦です。

クラウドファンディングを利用して、一頭の馬を購入することを決意しました。

そして、その馬を通して、自分の想いの発信や、子どもたちの自己実現の手助けをしたいと考えました。

挑戦したクラウドファンデングはこちら ⇒ 三重県にある「子ども専門」の乗馬クラブに、新馬を購入したい!

もちろん、人生初のクラウドファンディング。

はい。僕は超絶ビビってました。

(え?知らん猫おるし。ばりにビビってました。)

資金が集まらない不安ではなく、誰からも相手されなかったらどうしようという不安です…。

自分で不言実行を選択したくせに、何とも身勝手な思い込みです。

そして、担当者との打ち合わせでは、最低支援価格を3,000円からに設定していたのを、ビビッて2,000円にしようとしたくらいです。

いざ、クラウドファンディングが始まると、僕の不安はよそに、たくさんの本当に温かいご支援をたくさんいただきました。

僕は達成できた喜びよりも、意外とたくさんの人が応援してくれていることと期待が嬉しかったです。

ここで僕が思ったのが、かっこつけていた自分もいたけど、想いを発することに超絶ビビっていたんだという事が分かりました。

僕は何でもそうなんですが、人より気が付くのがだいぶ遅いんです。

でも、気付けて良かった。

このクラウドファンディングの挑戦は、僕の考えを大きく方向転換させ、ビビりな自分に大きな勇気を与えてくれました。

 

最後に

僕は今は、自分の想いをどんどん発信していこうと思っています。

そして、自分の行動をさらすことで、自分に言い訳を作らないようにします。

僕の正体は、ビビりで弱い人間です。

これは決して自分を卑下しているわけでなく、そこをしっかり認めることが自己成長への大きな一歩だと考えているからです。

不言実行を妄信していた時の僕は、かっこつけていただけでなく、弱い自分を隠そうとしていただけです。

すごい自分だけでなく、弱くてだめな僕をさらしながら、想いを形にしていきたいと思います。

それが、結果につながる一番の近道であり、今の僕には必要なことだからです。

そして、その想いを受けて止めてくれる人が周りにはたくさんいます。応援してくれる人がたくさんいます。

また、想いを形にしている人、応援したい人も周りにたくさんいます。

そんな人たちに成長した自分を見せる事、結果で恩を返す事。

その目的の達成のための手段は柔軟に変えていくこと。

僕は自分の想いを発信する、有言実行を選びました。

こうして、ブログに書き留めていくことも大切な事の一つです。

僕には叶えたい想い、幸せにしたい人、恩を返したい人がいます。

そのためにも、自分の想いをしっかり発信し、行動で示し、結果で答えていきたいと思います。

 

 

父と行く修学旅行

僕には今、3人の子どもがいます。

小学3年生の長男、小学1年生の次男、2歳の長女。

うちの子どもたちは10歳になると「父と行く修学旅行」というイベントが待っています。

この「父と行く修学旅行」は、USJやネズミさんの夢の国に行くような、ワクワクするような修学旅行ではありません。

生きるとは何か?

それをとことん考える、楽しい要素など一つも無い、まさに修学旅行です。

 

僕が生きることを考えた場所

僕は生きることに悩んだときは、手帳に自分を鼓舞する写真や、手紙の一文を貼っています。

児童虐待で亡くなった子の事件の記事。

特攻隊員の残した遺書。

東日本大震災で児童74名が亡くなった大川小学校の写真。

家族の写真など一切貼っていません。

重いかもしれませんが、僕にとっては生きることと向き合うために必要なものです。

僕は今、大切な人たちに囲まれ、自分のやりたいことにすべてを注ぎ、生きることができています。

そのありがたさ、尊さをおろそかにしてしまい、弱い自分に引っ張られそうになるときがあります。

そんな時は、手帳に貼られた先ほどの写真や手紙を見て、弱い自分の尻をひっぱたきます。

なぜ自分は生かされているのか?自分の成し遂げたいことは何なのか?

それを常に自分に問いながら生きています。

そうやって自分の生きる意味を考えさせてくれる事に由縁のある場所に子どもたちを連れて行きます。

 

修学旅行先は3つの場所から選ぶ

父と行く修学旅行先は以下の3つの場所です。

知覧特攻平和会館

靖国神社

大川小学校跡地

このいずれかから行き先を選んでもらいます。

僕は神風特攻隊の礼賛者でもなんでもありません。

ただ、なぜか神風特攻と不思議な繋がりがあっただけです。

その不思議な、奇跡のような体験は以前のブログで書いています。

⇒ 僕が「神風特攻隊」に教えてもらったこと。それと小さな奇跡と。

僕らが現在を生きていく上で、先の大戦から目をそらすわけにはいきません。

日本はなぜ戦争をしたのか?なぜたくさんの命を失ったのか?当時の人達がどんな想いで命をかけて戦ったのか?

そこにしっかり向き合わない限り、今の社会情勢、国際情勢、世の仕組みを語ることはできません。

そして、僕のおじいちゃんは戦争体験者で、戦艦「金剛」の乗組員でした。

このおじいちゃんの生き方も、僕の生き方に大きな影響を与えています。

その話は、また違う機会に。

そして、2011年に起きた東日本大震災。

多くの方が犠牲となり、その被害の凄まじさは記憶に新しいと思います。

また、東日本大震災をきっかけに、生きる意味を考えた人は多いのではないでしょうか?

東日本大震災のなかでも、宮城県石巻市での津波被害に遭った大川小学校での出来事。

津波により、児童74名が犠牲となり、子どもを守ることが何なのかを考えさせられる出来事です。

僕は震災から6年後に大川小学校跡地を訪ねました。

その時のブログはこちらから。

⇒ 僕の人生を大きく変えた日。そして、誓いを立てた場所。

自分たちが生きる意味、生かされている意味。亡くなった人たちがどんな想いで命を落としたのか。

これから生きていく上で何を大切にし、自分の真ん中に何を置くのか?

そんなことを考えさせてくれるのが、前述した3つの場所だと思っています。

 

父としてできること

僕は3人の子の父親ですが、父親としてできることの役割の主は、子どもに「在り方を見せる。」ことだと思っています。

人としての在り方、大人としての在り方、父親としての在り方、男としての在り方。

何か格好いいこと言ってますが、僕には「在り方を見せる。」それが一番、子どもたちに伝えたいことを伝える方法だと思っています。

どんなに素晴らしいことを説くよりも、自分自身が教材となり、生きざまを見せる。

古い考えかもしれませんが、父親としてできるのはそれが一番大切だと思っています。

 

生きる意味を考える

写真や教科書を使って、教えることもできます。

でも、僕は現場の空気や、雰囲気を感じ、五感を使って学ぶことが、一番だと思っています。

その現場に行って、そこで何が起こり、そこにいた人がどんな想いでいたのか。

それを子どもなりに深く考え、自分と向き合う時間を持つこと。

それは生きる意味を考えることと同義で、とてもとても大切な時間だと思っています。

僕はこの10歳で、生きることに向き合うきっかけを与えることが一番のタイミングだと思っています。

「つ」のつく間は神の子。と言われ、5つ、6つ、7つ、8つ、9つ。

「つ」のつく間はとにかく無条件の愛情を注ぐことが大切と言われています。僕もそう思っています。

「つ」が無くなる、10歳の時。子どもにとって、大人へのステージが一つ上がります。

今の子どもたちが大人になるのは18歳から。

12歳くらいになれば、思春期を迎え、親の言うことはうっとうしくなる。

それは大人になるために当り前のことで、子どもが思春期に入る前の10歳に、親として一番大切な事を伝えたいと思っています。

 

最後に

今を生きている以上、僕にとっては先の大戦と東日本大震災と向き合う必要があると思います。

僕は先の大戦の大義を議論するつもりはありません。

ただ間違いないのは、当時、戦争を体験し、戦い、犠牲になられた方々は僕らと同じ人間です。

同じように家族を愛し、痛みを感じ、悲しみに打ちひしがれていたはずです。

その多くの犠牲の上に現在があるのは、紛れもない事実です。

そして、東日本大震災という未曽有の大災害で、犠牲になられた方々、子ども達も同じです。

生かされているという言葉はきれいごとに聞こえるかもしれませんが、僕は生かされていると思っています。

たまたま生まれた時代、生まれた場所が良かっただけと言えばそれまでですが、生かされている以上、中途半端な生き方はできません。

わが子が10歳になり、「生きる」ことと向き合うきっかけを「父と行く修学旅行」で作りたいと思います。

自分たちが生かされている意味をそれぞれが考えたとき、子どもたちは大人になるためのステージを一つ上がれると思っています。