闘う事を恐れない

僕は争いごとが嫌いです。

好きな人なんていないと思いますが、僕は無駄に争いに発展することが本当に嫌いです。

基本、10のこだわりを持っていたとすれば、9は妥協し、人に譲ります。

ただ、最後の一つは相手がだれであろうと譲りません。

それは、自分の根っこになる部分と言うか信念だったり、大切な人の事だったり、人としての尊厳だったり…。

最後の一つだけは徹底的に戦います、そこで闘うことを恐れていては自分の生き方を否定し、大切な人を守れないからです。

闘うことを恐れない。

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争いごとが嫌い

僕は本当に争いごとが嫌いです。

僕の言う争いごととは、自己主張を貫きたいだけの、人を攻撃するための争いです。

論破。

やたらこの言葉を耳にするようになりましたが、相手を屈服させることに何の意味があるのでしょうか?

もし、その争いが大切なものを守るためのもので、その結果が論破であるならば、正しい論破だと思います。

ただ、むやみやたらに正論をかざし、いかにも自分は正義の味方のふりして、相手を屈服させる。

言葉選ばず言うと、愚か者とはこういうやつのことだと思います。

ましてや、殴り合いなど論外です。

一昨年ほど前、僕の子が通う保育園で、ビデオ撮影の場所取りが原因で、保護者同士が殴り合いに発展する事件がありました。

子どもの前でです。

もうマジでク・・・非常に愚かだと思います。

つまり、自己正当化のための相手への攻撃を目的とした争いは愚かだと思っています。

 

こだわりは持たない方が楽

僕のブログを見て下さっている方は僕は信念が強く、こだわりが強いんじゃないかと思われるかもしれませんが、意外とこだわりは多くありません。

本質の部分や、自分の心の真ん中に置いているものは強いですが、その他はフニャフニャです。

(誰がはぐれメタルやねん。)

全然人に腹も立たないし、気にもなりません。

何なら人からいじられるのが大好物です。もっといじってほしいです。(こいつ、ヤバイやつやな・・・。)

言い換えれば人の目はあまり気になりません。

車もボロボロだし、服も適当。人のうわさ話も無関心だし、おおむね何を言われても気になりません。

そして、人から受けた指摘や提案は素直に受けることができます。

小さなこだわりを持たないと人間関係でも悩まないし、素直に人の話を聞けるから、何事も柔軟に対応できます。

小さなこだわりを持たない。

これは本当にお勧めです。

 

闘うことを恐れない

こだわりの少ない僕ですが、自分の根っこの部分、心に真中に置いてる部分を守るためには徹底的に闘います。

それで孤立することがあっても、絶対に譲りません。

100人中99人が敵にまわっても、そこだけは譲りません。

そこを譲ってまで、組織やコミュニティーに残る意味は無いと思っています。

言い方は悪いかもしれませんが、むしろ、余計な人間関係が整理されて良かったとさえ思えます。

いわゆる同調圧力というのも完全無視です。

前述したとおり、僕はこだわっていることは少なく、大抵の事は妥協できるし、人に譲れます。

この柔軟性は、大抵の問題を解決してくれます・・・というより、問題に発展しません。

心の真ん中に置いておくもの、守るべきものが明確じゃない人ほど小さなこだわりが強く、周りを囲い込もうとします。

そして、自分より立場が弱いとわかると、自論を振りかざし、屈服させて悦に入ります。

結局、そうすることでしか自分の立場を守れないんだと思います。

だって、心の真ん中がきっとすっからかんだから、殻を固めるしか自分を守れないのでしょう。

僕は絶対にそうなりたくないから、常に真ん中に置くものを意識します。

真ん中を意識し、守るべきものを明確にすれば、人に譲ることができ、柔軟に対応ができます。

そして、闘うべきところで闘う覚悟ができているので、理路整然と議論ができます。

そうすることがむしろ、無駄な争いを避け、人を傷つけることはありません。

 

心の真ん中を意識する

先ほども述べたように、心の真ん中、自分の軸を意識することで無駄な争いを避けられます。

そして、闘うべきところで闘うことができます。

そこには強い覚悟も伴うので、孤独すら恐れなくなります。

もし、孤独になることに恐れがあるなら、真ん中に置いているものが違うのかもしれません。

人によってその基準は違うと思いますが、僕にとって真ん中に置くものを決めるとき、それを真ん中に置くことで孤独になっても怖くないという事を基準の一つにしています。

もし、それを守るときに孤独の怖さがちらつくと、絶対にぶれるし、同調圧力に屈します。

孤独を恐れて、心の真ん中を無くしてしまい、一緒にいる人たちは仲間でもなんでもない、ただの集団です。

その集団の中で過ぎていく時間を考えるだけで、僕はぞっとします。

でも、意外と闘う覚悟ができていれば、それだけしっかりと真ん中を意識していれば、争いに発展しません。

 

最後に

僕は争いごとが嫌いです。

でも闘う覚悟はできています。

僕が嫌いな争いごとは、芯の無い自分を正当化するために周りを下げ、弱い誰かを吊し上げて、屈服させる様です。

僕が必要と思う闘いは、自分の心の真ん中に置いているものと大切な人を守るために、孤独になることを恐れない闘いです。

心の真ん中を意識し、何を守るべきかを明確にする。

そうすることで、大抵の事は許せる、譲れる寛容さが生まれ、人に優しくできる。

そして人の話を素直に聞くことができて、柔軟に受け入れることができる。

それは必ず自分を成長させ、人生を豊かにするきっかけになると思います。

闘うことを恐れない。

それは心の真ん中を意識すること。

小さなこだわりを持たずに柔軟に自己成長につなげることは、生きやすさと人生を豊かにすることにつながると思います。

 

 

 

 

子どもは子どもでいてくれるだけでいい

僕には「子どもが豊かで安心して過ごせる社会をつくる。」「児童虐待の無い社会を作る。」という人生の目的があります。

ずいぶんと崇高な目的のように聞こえるかもしれませんが、本気で実現しようと想っています。

それは弱くてどうしようもない僕に生きる目標と役目を与えてくれた子どもたちに対する自然な感情だからです。

子どもは子どもでいてくれるだけでいい。

それが社会にとって必要な存在だからです。

 

子どもを守る本能と自分を守る本能

子どもの未来のために。子どものしあわせのために。

こういった想いを持った大人の人達が世の中にはたくさんいます。

それは昔から引き継がれてきた、人間の本能と言うかすごく当たり前の感情だと思います。

人類と言う種を残していくために備わった、人間が本来持っている大切な機能の一つです。

大げさではなく、生き物の目的が種の保存である限り、備わっていないといけない機能です。

難しいことを言っているのではなく、子どもを大切に想う気持ちは理屈抜きの人の本能なのだと思います。

ただ、人は自分自身を守るという矛盾した本能も持っています。

このバランスが崩れたときに、弱き子どもに矛先が向いてしまう。

人はよくできた生き物のようで、何とも未完成な矛盾を抱えながら生きている生き物なんだと思います。

 

オス(男性)の本能とメス(女性)の本能

生き物の多くはオス♂(男性)とメス♀(女性)に分かれて繁殖を行うシステムで種の保存を行っています。

・・・たまに性別変わる生き物(カタツムリ、カクレクマノミ、ナメック星人。)とかいますが、それは置いといて。

(よく考えたら大魔王が卵産むって、どんな設定だよ…。)

そして、生き物の多くは群れを形成して、自分たちの身を守ります。

その群れの最小単位が「家族」であり、大きくは「社会」なのだと思います。

ここでオスとメス、男性と女性の本能の違いがあります。

オスは群れのボスとなり、大きな「社会」を守るという本能があります。

一方、メスはわが子を最優先に守るという本能があります。

この本能は人間の男性と女性でも当てはまります。

大抵、でかい夢物語を語るのが男性で、現実を語るのが女性です。

これは本能から来ているので、おおむね仕方のないことです。もちろん例外はありますが。

 

本能に従う

人はおもしろい生き物で、この本能に逆らって生きて行こうとする特性があります。

おそらく、そんなことをするのは人間だけです。

でも、確かに本能のままに生きていたら、文明社会は築けないと思います。

あまりそこを深堀すると、話が果てしなく続くのでやめておきます。

ただ、本能に逆らうことは、それなりの代償を伴います。

ストレスを抱え、自己防衛に傾きやすくなります。

ときには本能に逆らう事が、理性を育て、人間ではなく人として成長をさせてくれます。

でも、本能と生きる目的が一致したときこそが、僕は最強な状態だと思っています。

つまり、子どもと言う存在を守り、社会と言う大きな群れを保つことが、オス(男性)の持つ本来の本能なのです。

僕はこの本能に従い、「児童虐待の無い世の中を作る。」と言う目的に向かい行動しているだけです。

 

子どもは子どもでいてくれるだけでいい

本能、本能うるさいと思いますが、本能を利用することが僕は最強の生きるパワーになると信じているので、本能に従う行動を心掛けています。

赤ちゃんが笑うとこちらも笑う。子どもが楽しそうにしているとこちらも楽しくなる。

子どもが傷つくと悲しくなる。子どもが亡くなるニュースを見るとやるせなくなる。

これらすべてが、オス(男)である僕に本来備わっている本能です。

子どもを守り、社会を守る。

この本能に従った行動を起こすために必要なのは、子どもが子どもでいてくれることです。

子どもが子どもでいてくれるだけで、大人は、特に男性は子どもを守る意識が強くなります。

この子どもを守る意識を男性が持つことで、僕は社会が成り立っていると思います。

世のため、人のためと言うのはきれいごとではなく、男性が持つ本能なのです。

 

最後に

僕は子どもが豊かで安心して過ごせる社会を作っていきます。

その過程で、避けては取れないのが児童虐待の問題です。

この世の一番の不幸は「愛されるべき人に愛されないこと。」「守るべき人に守られないこと。」です。

その愛されるべき人は実親であるのが理想でしょうが、僕は実親である必要はないと思います。

たくさんの大人が、一人の子どもに関わり、愛し、守る。

これでも十分に子どもの豊かな将来に繋がります。

そして、他を想い、子どもを守る想いは人間に備わった本能です。

この本能に従い、力に変えることが最強である限り、「児童虐待の無い社会を作る。」ことは難しいことではないと思います。

今の現状から夢や目標を設定することは大切ですが、人から笑われるような大きな夢や目標であっても、自分の信念と想いを強く持てば、夢から目標、そして目的となり、必ず達成できると思います。

そして、その信念と想いが本能から来るものであれば、それはさらに力強く、多くの人を巻き込み、実現可能となります。

理想論や夢物語を語っているわけではありません。

子どもは子どもでいてくれるだけでいい。

そう言い切れる世の中、子どもたちが豊かで安心して過ごすことのできる社会、児童虐待の無い社会を必ず実現させます。

それが僕の本能から来る衝動だからです。

 

 

 

 

 

人との出会いが人生を豊かにする…ではなく、人生を豊かにしようとすれば出会いがある。

なんだか長いタイトルやな・・・。

よく、人との出会いが人生を変えた!などと耳にしますが、確かに人との出会いは大切です。

僕も今まで出会った人たちのおかげで、今があると思っています。

ただ、今思えば、その出会い全てが自分発だったな。と感じています。

そんなお話です。

(なお、画像と本文は一切関係ありません。)

 

僕は人との出会いに恵まれている

僕が自信を持って言えるのは、僕の周りには最高の人達しかいません。

お世辞でもなんでもなく、マジなんです。

僕、今まで出会った人の中で、恨むような人、何か邪魔されるような人は一人もいません。

人脈が広いわけではないのですが、今も昔も周りにいる人たちは良い人や尊敬できる人達ばかりです。

そのおかげで、自分のやりたいことができているし、その上応援までしてもらえています。

良縁に恵まれてきたのが、僕の自慢です。

 

なぜ良い人たちに囲まれているのか?

僕はなぜこんなに良い人たちに囲まれているのかを考えました。

運がいいのか?・・・まあ、それもあるな。

俺のほとばしる魅力が人をほっとけないのか?・・・間違いないな。

冗談(本気)はさておき、行きついた答えはその前提として、自分が行動したからだと思えるようになりました。

 

出会いが先か行動が先か

なんだか卵か鶏かみたいな話になりますが、僕の答えは絶対に行動がありきだと思います。

ただ、なんとなく日常を過ごしていたら、今の良い人や尊敬できる人達に囲まれていたか?

答えは「NO」です。

僕は自分の考え想いから、行動を起こし、人生を選択してきました。

それが、幼稚で未熟な考えからのものだとしても、その時々で出した自分なりの答えで、行動し選択してきました。

そうして自分から動いた結果、まるで運命かのような出会いが訪れるようになりました。

そして、その出会いから自分の考えや想いがアップデートされ、さらに行動が加速する。

行動が加速するから、さらに出会いが増える。そして、また加速する・・・。

僕はこの最高のスパイラルに入っていると自負しています。

このスパイラルに入れば、間違いなく結果につながり、人生は豊かになります。

僕はまだまだ道半ばですが、明るい未来しか想像できません。

 

人との出会いが目的ではない

僕は人との出会いに恵まれていますが、人脈を広げようとか、もっとたくさんの出会いを探そうとは思っていません。

なんなら僕一人になっても構わないと思っています。

・・・いや、やっぱり一人はさびしいな。

でも、極端に言うとそれぐらいの気持ちでいます。

結局大切なのは自己実現と自己成長で、それを目的とした行動にしか意味がありません。

僕は色々と大義や理想を掲げて行動していますが、結局は自分のためです。

そこがブレて、人に合わせるような行動にシフトすると、なぜか逆に孤独になってしまうという…。

携帯のメモリーは何百件とあるのに、誰からも連絡が来ないとか。

俺、人脈広いぜ!・・・と言ってるやつに限って、不安そうにしてるとか。

僕は結構そんな人を見てきました。

僕は人との出会いを目的とした行動、人脈を広げるための行動に意味はないと思っています。

ぶっちゃけ、異業種交流会などでの名刺交換とか無意味とさえ思っています。

・・・言っちゃた。どうしよう・・・。

 

自分の環境を変える行動をしてみる

もし、今周りにヤベー人しかいないのなら。

会話の大半が人の悪口、文句しか言わない、行動が伴ってないビッグマウスヤロー・・・・。

そんなのフルシカトかませばいいんです。全力無視です。

そうもいかない環境の人もいると思いますが、その先に絶対に良い出会いはありません。

マジで断言できます。

急には人間関係を変えるのは難しいと思いますが、自分の行動を変えると人間関係も変わります。

人の悪口を言うのをやめる。文句を言うのをやめる。

これだって立派な行動の変化です。

そうした小さな行動の変化で、必ず人間関係が変わり、良い出会いがあります。

そのこれからの出会いを変えるきっかけとなる、たった一人に出会うことができれば。

もうそれで十分です。

(なお、画像と本文は一切関係ありません。)

 

最後に

僕は僕の自己実現と自己成長のために行動します。

それはどのステージに移ったとしても、変わらない想いです。

そして、自分が大きくなることで、人の力になり、いただいた恩を返して行けると思っています。

人に合わせた人生なんてまっぴらごめん。

時には孤独になりますが、その孤独すら楽しめる覚悟とノリがあれば大丈夫だと思います。

そこがブレなければ、何百何千の人に囲まれなくても、最高の人達に囲まれることができます。

僕は今、最高の人達に囲まれています。

自分の思いを叶えるために行動する人、世の中を変えるために行動する人、誰かのために行動する人。

皆さん、本当に尊敬できる人ばかりです。

それは年下、同年、年上関係なくです。

 

僕は幸せです。必ず自分の思いを叶えるため、人の力になるため、これからも行動し続けていきます。

今僕を支えて下さっている人たち皆さんに心から感謝しています。

 

キャーキャー言われるチャンスが来た!

男に生まれた以上、人生で一度はキャーキャー言われてみたい。

アイドルやプロスポーツ選手以外で、キャーキャー言われるチャンスはそんなにたくさんはない。

むしろ、そんなチャンスは人生で一度あるかないかだと思います。(そうか?)

僕にもそんな一世一代の大チャンスが訪れたことがあります。

そんなお話です。

 

高校2年の冬

高校2年の冬。

17歳の僕は決してもてるタイプではありませんでした。

身長が高いわけでも、イケメンでも、スポーツ万能でもない、ただの男子でした。(チキショー!)

しかし、そんな僕にもキャーキャー言われるチャンスがやってきます。

僕の通っていた高校では、高2の冬に「早朝稽古」という、謎のしごき・・・もとい、鍛練を目的とした行事がありました。

朝の6時半に学校に行き、冬の寒い朝に男子は柔道、女子はマラソンをするという、素晴らしい行事です。

最終日には「納会」といって、柔道のトーナメント戦があります。

柔道・・・。

なんと!僕は中学時代、柔道をしており、こう見えても有段者なんです!

来た。来たよ。これ。

当時(今も)、体の小さい僕は強そうに見えないので、誰も僕が有段者とは知る由もありません。

さあ!キャーキャー言われるんだ!

 

寒稽古がはじまる

寒稽古の期間は2週間。

この2週間の間、朝のくそ寒い時間に柔道の練習をします。

一応、経験者とは伝えていましたが、それとなくみんなのペースに合わせて、実力を押し隠していました。

・・・そう、すべては最終日のトーナメントに備えて。(せこ!)

 

トーナメント当日

僕はこの日をどれほど待ちわびたか。

ついに・・・ついに、今まで日陰で咲いた花のような人生を送ってきた僕にスポットライトが当たる日がやってきました。

学年でもチビの部類に入っていた僕の相手は、全員大きい子たちばかり。

いい。これでいい。

なおの事、光り輝くチャンス!

トーナメント1回戦。

嬉しいことに、1回戦の相手はサッカー部でモテている男子!!

この恨みはらさでおくべきか・・・。(逆恨み甚だしい!)

はじめ!

の合図と共もに始まったトーナメント1回戦。

相手はサッカー部のモテ男子。

トーナメントを見に来ている女子も「〇〇くん!がんばって!」と完全アウェー!

くくく・・・。こいつをどう料理してやろうか・・・。背負い投げで宙を飛ばしてやろうか。いやいや、背負い投げは決勝戦までは封印じゃ。

ここは大外刈りに来たところを大外返し。いや、相手は引き気味だから、大内刈りで十分倒せるな。くくく。

ちなみにこのサッカー部モテ男くんはめちゃくちゃ男子にもモテ男のナイスな男でした!

僕はタイミングを見図り、大内刈りを掛ける。

相手はあっさりと背中を突き、一本!勝負あり!

見た?女子たちよ!俺の姿見た?

ドヤ顔な僕の反応とは裏腹に、女子はきょとんとした顔でこちらを見ている。

あれ?まあ、まだ一回戦やし、まぐれとでも思っているんだな。うんうん。

そう自分に言い聞かせ、僕は2回戦、3回戦と勝ち進んでいきます。

 

決勝に現れた最大のライバル

いよいよ決勝戦。

さすがに決勝まで上がってくると、みんなの僕を見る目も変わってきました。

しかも、観客増えてるし!女子いっぱいいるし!

そうかそうか。みんなこの俺の活躍を見に来たんだな。うんうん。

そこに一人の男が現れます。

「キャー―――!!ダニエル!!!がんばって!!!」

ダニエル?

そう、僕の決勝の相手はスェーデンから来た交換留学生のダニエル!!!

ダニエルは身長180センチ越えの、青い瞳と、はにかむ笑顔が魅力的なナイスガイ!!

(こっちのダニエルじゃねぇってばよ。)

女子は皆、このダニエルの応援に来ていたのです。

ふふふ。大丈夫。このダニエルに勝ちさえすれば、この歓声は俺のものに・・・。

はじめ!

 

死闘の末に・・・

いくら180㎝の相手でも、僕の背負い投げを持ってすれば恐るに足らないと・・・。

そう思っていたのですが、このダニエル、パワーが半端ないんです。

身長165センチの僕はそのパワー差で、ぶんぶん振り回されます。

強!

これはマジでいかないとパワーだけで負けてしまう…。

僕は技を繰り出そうとするのですが、岩のような強さのダニエルになかなか技が繰り出せません。

しかし、ダニエルが僕に向かって大外刈りを繰り出そうとした瞬間!

柔良く剛を制す。

僕は渾身の背負い投げを繰り出し、ダニエルの体は宙を舞いました!

一本!!!

勝った!!やったぞ!!見たか女子!!!

・・・と、女子の方を見てガッツポーズをしようとした瞬間・・・。

僕の体を包む優しい両腕が…。

ダニエルが僕の勝利をたたえ、ハグをしてくれたのです。

「キャー―――――!!!ダニエル!!かっこいい!!!」

え?え?えええええええええ!!!!!!

 

そして表彰式

僕は男子からの手荒い祝福を受け、男子の歓喜の輪の中心にいました。

一方、ダニエルの周りにはダニエルの健闘をたたえる女子の一群が・・・。

そんなもやもやを抱えて始まった表彰式。

体育館に集まった1000人近い全校生徒の前で行われる表彰式。

各競技の表彰者は順番に呼ばれ表彰されていきます。

そして、いよいよ柔道の表彰。

3位から1位の僕までが壇上にあがり、3位から順に表彰状を校長から受け取っていきます。

そして、全員が表彰状を受け取り、壇上から降りようとした瞬間、女子の一人が「ダニエル!」と叫びました。

その声に対してダニエルは・・・。

投げキッスをして、ウインクをしました。

キャーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

約700人の女子全員の目がハートになったのが分かりました。

うそやん。できる?そんなこと?1000人(内男子300人)の前で投げキスして、ウィンクとかできる?

僕は優勝したことなどすっかり忘れて、まるで敗者の雰囲気をまとい、壇上を降りて行きました。

クラスの女子数名が、「上迫・・・。よくがんばったよ・・・。」と声を掛けてくれました。

なんで俺、同情されてるんだ・・・。

 

最後に

男子はいつになっても女子にキャーキャー言われたいもの。

その心はとても大切だと思います。

別に何かを期待しているわけやないけど、モテたいやん(笑)

このブログは僕が高校2年生の時にキャーキャー言われたくてがんばったけど本当にかっこいいやつにはかなわなかったというそれだけの話です。

以上です。

ダニエル元気にしてるかな?

 

 

大津の園児死亡事故について考える

先日、滋賀県の大津市で園児2名の命を失う事故が起きました。

亡くなった子と同年齢の2才の娘を持つ僕としても、日常を奪われる恐ろしさ、悲しさが痛いほど伝わってきました。

そして、保育園の会見で涙する園長先生の姿に心を打たれました。

でも、感情は一度置いて、この事故について僕なりの考えを書きたいと思います。

 

責任の所在は?という議論

この事故の責任の所在は、もちろん事故を起こした加害者側にあります。

それは揺るぎない事実です。

ただ、2名の園児の命を失ったことへの責任はどこにあるのか。

世論は保育園を擁護する風潮が強いですが、本当に園側に100%責任はなかったと言えるでしょうか?

わが子を保育園に預け、同じ事故がわが身に降りかかった時に、園を責めずにいられるでしょうか?

僕には自信がありません。

だからこそ、感情は一度置いて、一人の親、一人の大人として冷静に議論する必要があります。

子どもの命を本気で守るために。

 

保育園の記者会見を見て思う事

保育園の会見を見て、本当にやさしい園長先生のもと、子どもたちのことを大切に想っていた保育園だというのが伝わりました。

だからこそ、マスコミの報道や記者会見での態度の在り方が浮き彫りになり、叩かれるのでしょう。

その流れで、保育士がんばれ!負けるな!と言ったツイートや記事を目にするようになりました。

でも、もしあの会見で、園長先生が不誠実な態度をとっていたとしたら同じことが言えたでしょうか?

恐らく、世の流れは違う方に向いていたと思います。

だからこそ、冷静になってこの事故の問題を考えなければいけません。

マスコミの報道以上に怖いのは、SNSなどから溢れる空気感です。

この空気感に流されて、一方の意見に同調する方が、僕にはよっぽど恐ろしく感じます。

 

責任とは一体何なのか?

何か起これば、まず起こる議論が責任論です。

責任の所在、言葉を選ばず言えば、犯人探しを始めます。

ただ、前述したとおり、事故の責任は加害者側にあります。

これは明確であり、それ以下でもそれ以上でもありません。

しかし、園児2名の命を失ったことに他の責任はないのでしょうか?

はっきり言って、保育園側にもその責任の一端はあります。

そこを議論しない限り、子どもの命を守ることに繋がらないので、敢えて触れさせていただきます。

僕もお子様の命をお預かりする仕事をしている以上、このことから逃げてはいけないと思っています。

事故に対しての対策云々の方法論ではなく、どう考えていくかの話です。

 

これからを考える

では、子どもの命を守るために社会が、大人ができることは何なのか?

まずは保育園の課題について考えると、

保育園の立地、保育士の数、環境など、保育園によって、置かれている状況が違うので一律の安全に関するマニュアル化は難しいと思います。

難しいというより、無理でしょう。

では、園児を外に連れ出すことをやめればいいのか。

これも無理でしょう。

つまり、保育園側は常に「子どもの命と安全を守る。」「子どもの発育に必要な質の高い保育の提供。」この2つの課題と向き合っていると思います。

どちらも子どもにとっては大切で、切っても切れない課題です。

しかも、保育士の数はいつも足りず、限られた人数でその2つの矛盾のバランスを精一杯確保しているのが現状です。

そして、社会の流れは女性の社会進出を促し、保育園の増設を目指しています。

保育園の置かれる環境はますます厳しいものとなります。

その中で、先ほど述べた2つの課題をどのように確保していくのか?

ここまで書いといて申し訳ないのですが、僕には明確な答えがありません。

ただ、分かっているのは保育園を必要とする子が増えていること。保育園の置かれている環境が厳しいこと。

この2つです。

大きな問題だから、国や行政の問題。

確かにそれもありますが、国や行政が動くには時間がかかります。

保育士の数を増やすのも、すぐに増えるものではありません。

なかなか問題の本質が見えにくいですが、まずできることは保護者と保育士の連携ではないでしょうか?

どうしても、保護者側と保育士側に分かれる構図になりがちですが、子どもを守り育む点で、協力し合う関係でなければいけません。

僕たち保護者が保育士をサポートし、肝要であることが大切だと思います。

そのために、日々の保護者と保育士の情報交換、共有。コミュニケーションが大切だと思います。

月並みな言葉かもしれませんが、それを意識するだけでも見えてくるものが必ずあります。

 

親として一人の大人としてできること

僕は今、3児の父親です。

この子たちがいない日常など想像もできません。

その日常を奪われた、園児本人、親御さんの胸の内を想うと悔しさと無力さに心が締め付けられます。

これ以上このような悲惨な出来事を繰り返さないためには、大人の意識を変えるしかありません。

児童虐待の考えた方と同じですが、一方的な考えや、空気感に流されず、本質を考えて、意識を変えること。

そして、意識を変えたら行動することです。

保育園の先生に声をいつも以上にかけてみる、保育園の保護者会に積極的に関わる。

他の保護者にあいさつをしてみる、子どもに声を掛けてみる。

すごく小さなことでもいいので、行動を変えてみると変わっていくことがあるはずです。

そうすることで、子どもを様々なことから守る意識が共有、醸成されていきます。

そこから日常的に議論が生まれ、協力体制が出来上がり、それぞれの園に合った子どもを守る方法が生まれてくるはずです。

小さなことかもしれませんが、事故に限らず、様々な危険から子どもの命を守る一番現実的な方法だと思います。

 

最後に

今回の事故で、命を落とされたお二人のお子様のご冥福を心からお祈りいたします。

そして、保護者の皆様、関わった保育士の皆様の心の内を想うと、悔しくてたまりません。

また、怪我をされた園児、保育士の皆さまの一日も早い回復をお祈りしております。

僕は一人の親として、社会の一員として、この問題と真摯に向き合い、そして行動します。

いつ、自分自身が被害者にも加害者にもなりうるのが事故の怖さだと思います。

これ以上、小さな命を失わないよう、力を尽くしていきます。

 

学校には行かなくてもいい!のか?

今年のゴールデンウィークは10連休という異例の長さでした。

10日も休むと学校に行きたくなくなる。

その影響か、ネットの記事などで

10連休の後には不登校が増える。学校には行かなくてもいい。

等の記事が目立ちました。

そして、不登校の小学生ユーチューバ―が話題になったりと…。

学校には行かなくてもいい!

この言葉の意味を考えます。

 

無理に行く必要はない

もし、学校が本人にとって心をすり減らすくらいのストレスのかかる場所なら、僕は行かなくてもいいと思います。

過度ないじめや居心地の悪さがあるなら、行かない。という選択もありだと思います。

実際、絵にかいたようないじめられっ子だった僕からすれば、いじめで苦しむ子の気持ちは痛いほどよく分かります。

 

行くか?行かないか?の選択を与える罪

ただ、僕は積極的に学校へは行かなくてもいよ!と言うつもりはありません。

学校へ行かない。不登校という選択は、最終手段だと思っています。

安易に学校へは行かなくてもいいという選択肢を子どもに与えるのは将来にわたり、その子を苦しめることになるからです。

朝起きて、今日は学校に行こうかな・・・。行かないでおこうかな・・・。

そんなことに頭を使うと、一日のパフォーマンスは間違いなく下がります。

なんだか一日かったるい感じになります。

どちらを選択したとしてもです。

これは大人になった時に、仕事行こうかな…。行かないでおこうかな…。

という、無駄な選択肢を与え、将来にわたり、超邪魔くさい思考の癖となります。

これって、けっこうな生きづらさを子どもに与えていると思います。

 

学校へ行かない選択に対して大人は覚悟があるのか

学校は無理していく所じゃないよ。行かなくてもあなたを認めるよ。

言うは易しですが、この言葉を子どもにかける覚悟は本当にできているのでしょうか?

僕はその覚悟はありません。

不登校という選択は、その子の将来の選択肢を大きく狭める可能性があるからです。

ただ、先ほども言ったように心が過度にすり減る可能性がある場合を除いてです。

学校に限らず、社会に出ても必ず適度なストレスはかかります。

この世にストレスの無い状態などは存在せず、誰もがそれなりのストレスを抱えながら生きています。

大人になって、置かれている状況に過度なストレスがかかっている場合は、状況を変える力が必要になります。

僕はこのストレスとの向き合い方と過度なストレスがかかった時の状況突破力が大人になって必要だと思っています。

ストレスに耐えうる精神力。

・・・が必要なのではなく、上手な付き合い方と状況を変えるための調整力、突破力、思考力。これらが絶対に必要だと思います。

そのためにはある程度のストレスがかかる状況は子どもにとっても必要だと思います。

その成長の場が学校であり、その場から安易に逃げる選択を子どもに与えていいのか?

逃げてもいいんです。逃げさせてもいいんです。

そこにその子の将来を背負う覚悟があるなら。

 

不登校はハンデなのか?

不登校の状態は、ハンデになるのか?

必ずしもそうは思いません。

ただ、不登校を選択した子どもに、学校に代わる成長の場とチャンスがあればそれでいいと思います。

勉強に代わる、子どもたちの生きる抜く力を磨く術を与えられるなら、不登校は別にかまわないと思います。

不登校の子に成功者が多い。

なんて言われますが、別に不登校だから成功したのではなく、学校に代わる成長の場があったから成功しただけです。

学校に行っていて成功している人だって、たくさんいます。

不登校というのは状況であって、大切なのはその子に適した成長の学びが与えられているかが重要なだけです。

先ほど不登校の小学生ユーチューバ―の話をしましたが、彼にとってはユーチューブが学びのきっかけで、成長のツールになっただけです。

別に不登校か否かなんて関係ありません。

不登校だから、持ち上げるのは意味がないと思います。

ただ、ユーチューブで頑張っている。

それ以下でもそれ以上でもありません。

本人が学べる環境があり、その環境を大人が用意し、サポートできるなら不登校は何のハンデでもありません。

 

休まないことは信頼になる

不登校な子がいる一方、毎日学校に行き、一日も休まない子がいます。

僕は不登校の子より、こっちの子の方にもっとフォーカスするべきだし、称賛するべきだと思います。

休まないこと。

これは大人になってかなり強力な武器となります。

あいつは何があっても休まない。仕事を頼みやすい。

この状況は必ず、成長へとつながります。

休まず来るというのは、時にスキル以上の信頼を獲得できます。

信頼を獲得できれば、頼まれる仕事も増え、仕事のスキルは上がり、人が集まり、人間力が向上します。

後は好循環のサイクルに入り、その子の将来は明るいものになります。

結局、どの立場、どの仕事でもすべて信頼の上に成り立っています。

この信頼の大元になるのは、「何か分からんけど、あいつならやってくれそう。」という根拠のないものだったりします。

だから人から信頼を得る入り口として、休まないことはとても大切です。

 

最後に

子どもにとって、学校に行くこと。行かないこと。

正直、どちらでもいいと思います。

ただ、学校で学ぶべきこと、獲得できることはたくさんあります。

その場に行かなくてもいい。と言う選択を与える以上は、学校に変わる生きる力を獲得できる環境を用意する必要があります。

その環境があるのであれば学校に行かない選択はありだと思います。

その環境がなくても行かない選択を取らせるのは、いじめや過度なストレスが掛かっている状態だけです。

そうじゃない場合は大人の覚悟が重要です。

その子の将来を背負う覚悟がなければ、安易に子どもに無駄な選択を与えてはいけないと思います。

行くか?行かないか?の選択肢を与えられた子どもは貴重な考える力を奪われてしまいます。

耳触りの良い言葉を並べて、子どもの味方のふりをしてはいけない。

きつい言葉かもしれませんが、自戒を込めて言います。

大切なのは子どもが将来、生きていくための力を獲得できるかどうかです。

それを第一に考え、覚悟を持った言葉を子どもには掛けなければいけないと思います。

そして、僕たち大人はそのための環境を作っていくことが大切な役割の一つだと思います。

 

 

 

 

 

良い自己否定と悪い自己否定

自己否定をしてはいけない。

確かにその通りだと思います。

ただ、僕は自己否定には2通りあって、すべての自己否定がダメだとは思いません。

逆に、すべてをポジティブに。

これもまた、僕は違う捉え方をしています。

僕が思う良い自己否定と悪い自己否定。

そんなお話です。

 

子どもの前でしてはいけない事

子育てにおいて、僕はあまり禁止事項は設けないようにしていますが、気をつけていることはあります。

それは子どもの前で自分を卑下することです。

「私はダメな親だから…。」

それだけは子どもの前では言いません。思いもしません。

子どもにとって一番つらいのは、親の苦しんでいる姿を見る事。

それは子ども自身が否定される以上に応えるものだと思っています。

特にお母さんが発する、自己否定の言葉は後の人生に影響を与えるほどの破壊力を持っていると思っています。

 

自分を否定することは子どもを否定するより罪深い

「私はダメな親だから…。」「こんな親でごめんね…。」

これを言われた子どもはどう答えればいいんでしょうか?

その場では「おかあさん、大丈夫だよ。」と答えてくれるかもしれません。

でも心の中では「僕が生まれてきたから、お母さんは苦しんでいるんだ。」「私は生まれてこなければよかったんだ。」と子どもも自己否定を始めます。

親が自分を否定するという事は、それ以上に子どもの存在を否定することになりかねません。

 

悪い自己否定とは

つまり悪い自己否定は、自分自身を下に見て、存在そのものを否定することです。

特に母親がその悪い自己否定に支配されると、間違いなく子どもも同じくらいに自分の存在を否定しています。

ただ、僕は世のお母さんに対して、禁止事項や、〇〇べき。論は言う必要もないし、そんなこと言ってお母さんを追い詰めるのは本末転倒だと思っています。

でも、愛情深いお母さんほど自分を追い詰め、自己否定をしがちなので、もっと世の中はお母さんを大切にしていいと思います。

それを踏まえての話なので、完璧な子育てを押し付けているわけではありませんので、ゆっくり読み続けていただきたいと思います。

 

全てをポジティブに!・・・も少し違う

では日々の子育てでの失敗をすべて前向きにとらえればいいのか?

僕はこれも違うと思っています。

そもそも、ポジティブになろう!と決めること自体がすでに悪い自己否定への入り口だからです。

親だって人間なのですから、子どもにイラッとすることやめんどくさいと感じることだってあります。

そのネガティブな自分が出てきたときに、無理やりポジティブに考えることに無理があって、心をすり減らしていくだけです。

その無理は必ず最後には破綻すると僕は思っています。

ポジティブになれない自分を否定しだすのです。

これに陥ると、本当にしんどいと思います。

 

良い自己否定とは

もうね、自己否定をすればいいんですよ。まじで。

支離滅裂なことを言いだしておりますが、僕は自己否定そのものを否定しているわけではありません。

最初に述べたように、自己否定には良い自己否定と悪い自己否定があると思っています。

悪い自己否定とは、自分自身を下に見て、存在そのものを否定すること。

では逆に良い自己否定とはなんなのか?

「しまった!私としたことが、こんな失敗を…。」

「なんてこった!私ほどの人間がこの程度のことで…。」

これです。

つまり、自分を素晴らしい親だという前提を置くことです。

今は違ってもいいんです。でも、本当は素晴らしい親なんだという自分を心に置いとくと楽になります。

これはマジなんで試してみてください。

つまり、本来は自分は素晴らしい親なんだけど、今日は失敗しただけ。

ようは高い所にいる自分を設定して、そこから現状を俯瞰した上で、自己否定する。

その自己否定は良い自己否定だと思います。

 

自分に期待する

僕は世のお母さんは皆さんすごいと思います。

よいしょしているわけではなく、心から思っています。

でも、お母さんたちはなぜか自信なく、不安を抱えている人が多い気がします。

これは子どもを守る本能として、お母さんは不安を感じやすくなっているそうですが、それを差し引いてもです。

お母さんは十分すぎるくらいがんばっているし、この日本を支えているのは間違いなくお母さんたちの存在です。

お母さんたちはもっともっと自分に期待していいと思います。

わたしはすんごいだから!と。

最後に

悪い自己否定の先に、幸せはありません。

悪い自己否定は自分自身だけでなく、子どもの存在を否定することになります。

だからといって、無理やりに何でも前向きにとらえる必要もないと思います。

ただ、もっと自分に期待すること、今はできないことが多くても本来は素晴らしい親なんだと思うことは大切です。

そのちょっと先にいる自分を設定した上での自己否定はありだと思います。

これは子育て以外にも言える事なので、現状の自分にとらわれすぎず、少し先にいる自分の声を大切にしたらいいのかなと思います。

という僕もなかなかできなかったり落ち込んだりすることがあります。

僕は心理カウンセラーでも子育て評論家でもないので、経験から感じたことを言っているだけです。

でもこの考えを身に着けてから、楽になったし、落ち込むこともイライラすることも減ってきました。

最後に一言。

僕は自分の妻含め、世のお母さんを心から尊敬しています。

世のお母さんはもっと自信満々でいてほしいなと思います。

 

 

 

 

 

中途半端な大人にならない

小学生の時に描いた大人象。

スーツを着て、何かようわからんプレゼンみたいのして、毎朝経済新聞読んで、休日は白のシャツにピンクのセーターを肩からまいている…。

(いや、違うやろ!そんなイメージ違うやろ!)

なんだか漠然と小学生なりに大人象を描いていました。

30歳越えればコーヒーのブラックやワインをたしなみ、世の中の事なんてすべて分かるもんだと…。

現実はどうだったのか…。

 

30歳を超えた自分

30歳を超えた自分は小学生の時に描いていた大人になれているのか?

ジーンズを履き仕事をし、休日は中学生から着ているパーカーを着、カブトムシを見ればテンションが上がり、コーヒーは牛乳とお砂糖が必須で、ワインよりもウェルチのぶどうジュースが好きで、子どもと嫁の取り合いをする…。

ん?変だな…。こんはずじゃ…。

 

大人ってなんなん?

そもそも大人ってなんなのか?

考えたら、大人でいる期間は子ども時代よりはるかに長いわけで、30代なんて大人の世界では、まだまだ若手に入る。

自分がどんな大人になりたいのかなんて、20代の時は全くもって考えていませんでした。

自分がどんな大人になりたいのか意識しだしたのは、子どもが生まれてからでした。

 

どんな大人になりたいか

僕は子どもが生まれてから、自分はどんな大人になりたいのかを考えるようになりました。

僕の考える大人とは

① 何事も全力で取り組み、やり切ること。

② 世の子どもたちを守り育むこと。

③ 何をするにも責任を伴う事。

これだけは大人として最低限やるべきことなんだと思っています。

大人としてやることはそれぐらいしか思いつきません。

どうやら僕は「大人」という言葉に縛られていたような気がします。

 

変に大人ぶらない

僕はどんな大人になるかよりも、どんな生き方をしていくかを考えるようにしました。

そうして考え出すと、子どもの時と同じ感覚でワクワクしたり、メラメラするものが出てくるようになりました。

自分は大人だから、大人だから、大人だから…。

いや、大人の条件なんて最低限を守っていればいいだけで、あとは子どもでいた方が人生を楽しめる。

37歳の僕の出した答えは、

もう、大人ぶるのは辞めて、子どものままで行こう!

です。

 

子どものままでいい

コーヒー牛乳とぶどうジュースが好きで、カブトムシにテンションをあげ、子どもと嫁の取り合いをする・・・。

これでいい。(いいのか?)

子どもの頃、おじいちゃんちで過ごした夏休みのワクワクした日々のように、毎日をワクワク過ごす。

子どものときには難しいことは考えずに、目の前のことに没頭し、夢中になれた。

何かを継続するのに崇高な理念が心の支えになることもあるけど、一番大切なのは純粋に没頭し夢中になること。

これに勝ることはないと思います。

 

中途半端な大人にならない

大人という言葉に縛られ、変に空気を読みすぎて、自分を押し殺す。

責任ばかりを考え、無難な選択を繰り返す。

そんなことになる位なら、大人になんてならなくていい。

大人にならなくていいというよりは、変に大人ぶろうとするのは時に足枷となってしまう。

大人なんて難しくなく、最低限のことを満たしていればあとは子どものままでいい。

そう考えた方が人生が豊かになり、自分の達成したい目標に最短で行けると思います。

中途半端な大人にならない。

 

最後に

子どものままでいればいい。

でも本当に子どものままでは、色々と問題があるので、コアな部分というか心の真ん中は子どものままでいいと思います。

何かにワクワクし、夢中になり、没頭できる。

これに経験と志(こころざし)が加われば、必ず自分のやりたいことを達成できると思います。

そして、そんな夢中になっている大人を見て、子どもたちは大人になることにワクワクします。

楽しそうなことをしている人の周りには、その人を応援する素敵な仲間が集まる。

この好循環が生まれれば、必ず人生は豊かになります。

ありがたいことに、僕の周りにはそんな素敵な指針となる人がたくさんいます。

中途半端な大人より、子どものように振り切った大人でありたい。

僕はそう思っています。

 

 

 

 

 

人それぞれという言葉に逃げない

何か議論をするときに、

「それは、人それぞれだから。」

と言われてしまうと、まったくもってその通りなので、議論は止まります。

時には、そこを乗り越えて議論をしなければならないと思います。

「人それぞれ。」

その言葉に逃げてはいけない。僕はそう思っています。

 

子育て論を語ろう

世にはたくさんの子育て論があります。

各家庭によって、想いや考え方は違っていて、それこそ各家庭それぞれです。

各家庭それぞれなんだから、お互いの子育てに関する価値観を議論しない。

ある意味、達観した考えですが、その先に成長はあるのでしょうか?

僕は常々、子育ては親育てでもあると思っています。

自己成長の無い子育ては、子どもに対して失礼だと思っています。

子育てを通して、親も様々な経験から、考える力や精神力、大人のあるべき姿を見せる事で自己成長をします。

これは僕の考えですから、全く違った考え方もあると思います。

ここで「人それぞれ」という言葉に逃げず、恥や思い込みを捨てて、親同士で子育て論を熱く語ることは非常に有意義です。

 

批判や他人の評価にビビりすぎ

他人を批判したり、評価することはあまり意味はありません。

ましてや自分の考えを押し付けるなんてことは、子育てにあってはいけないと思います。

でも、何かを発言すれば、それは一定の批判や評価をされることは仕方のないことです。

ただ、僕たちはそこにビビりすぎてはいないでしょうか?

子育てについて熱く語るのは恥ずかしい、自分の子育てへの考えが間違ってるんじゃないか、かっこいいこと言うと口ばかりと思われるんじゃないか。

僕もよく躊躇することはあります。

でも、はっきり言って、人それぞれだからこそ、批判や評価を恐れずに、子育て論を語るべきだと思います。

自分が語ることで、人が語りだすこともあるし、誰かの参考になっていることだってあります。

批判や評価にビビって、子育てを議論できないのは、極端に言うと自己成長から逃げているのと一緒だと僕は思います。

 

僕の思う子育て

先ほど言ったように、僕は子育ては親育てだと思っています。

比率で言うと子育て3、親育て7ぐらいに思っています。

僕は子どもをどう育てていくかより、自己成長にどうつなげていくかに重きを置いています。

だから、子育て中の失敗に対して、自責の念や子どもに申し訳ないと思うことはありません。

成長に失敗はつきものだし、失敗のない成長法なんかないと思っているからです。

これでいいのかな?自分の子育ては正しいのかな?

そんなこと考えません。

そもそも、誰だって子育ては初めてやることで、日々の手探りの状態から自分に合ったやり方を改善し、確立していくものです。

僕はわが子に対して、自分の子どもとあまり思わず、一人の人間という意識の方を強く持つようにしています。

共に成長していく仲間のような感覚です。

例えるなら、漫画ワンピースのように同じ船に乗って冒険をするストーリーを共に描いている感覚です。

親には親の人生がある

僕は子育ての時に絶対に言わない思わない考え方があります。

「家族のために。」

これは言わないし、思いません。

正確には家族の生活のために自分のやりたいことを捨てて、自己犠牲のもとに成り立っている家庭を築きたくありません。

疲れ果てた親の姿、身を粉にして働く親の姿。

僕はそんな親にだけはならないと強く決心しています。

だからこそ、子育て論を語り、知恵を絞り、自分のやりたいことの中で子育てをする方法を考えまくっています。

僕には僕の人生があるので、それを実現させるためのクルーの一員が子どもであるだけです。

 

子育てを人生の目的にしない

僕は僕で実現したいことがあるので、子どもに何も期待していません。

ちょっと語弊があると思いますが、親の期待はときに子どもにとってはプレッシャーになるからです。

期待はしていませんが、信頼はしています。

子どもがどんな人生を選択しても幸せになれるための考え方や在り方は見せて行こうと思っています。

だから、子どもはかわいいですが、僕の人生を捧げるつもりはありません。

子育ては僕自身を成長させるもので、子どもは共に成長していく仲間です。

お互いに自分の人生を豊かにするために、協力し合う存在です。

僕はこの距離感と考え方をすごく大切にしています。

 

ごちゃまぜの子育てをする

僕は人生を豊かにするための一つとして、子どもの時にはごちゃごちゃした環境にいることが大切だと思います。

もちろん、最低限の条件は夫婦が仲良しでいることです。

もう極端に言えば、どんな生活環境でも夫婦が仲良しでいれば他に何もいらないとさえ思います。

逆にどんなに安定した生活環境であっても、夫婦仲が悪ければすべておじゃんです。

ましてや、夫婦仲が悪いのに「子どものために一緒にいる。」なんて理由を言われるのなんて、子どもからすれば真っ平御免です。

それぞれの道を歩んでもらった方が子どもは安心です。

ちょっと話がずれましたが、夫婦仲が良いことを最低条件として、ごちゃごちゃな感じにする。

ごちゃごちゃってなんやねん。という感じですが、とにかく良い意味でカオスな状態にすることです。

感性ビンビンの子どもの内に穏やかな日々を過ごさせるのではなく、刺激的な日々を過ごすことです。

僕はこのごちゃごちゃな状態を作る一環として、血縁関係のない子どもをわが子として迎え入れようと考えています。

いや、もう迎え入れる準備をしています。

まあ、小さくまとまんなよ。

という事です。

 

価値観を押し付けるのではなく価値観の在り方を見せる

親の持つ価値観があります。

子どもは親の価値観の中で、様々なものを与えられ、育っていきます。

僕もついやってしまうのですが、正しいことを正しいと言ってしまうことです。

時に正しさを伝えることは大切ですが、説くことにあまり意味はないと思っています。

それよりも自分が思う価値観を実際に日々の生活の中で、行動、実現することが一番子どもに伝わると思います。

ようは在り方を見せる事に全力を傾ければ、子どもに正しい価値観は備わってていくと思います。

ここで言う正しい価値観とは、子どもが自分のものとして持つ価値観の事です。

価値観の中身は別に何でもいいのですが、「これが自分の価値観だ。」と想い、語れる価値観を持ってくれてればいいです。

 

最後に

ここまで自分の子育てに関する考えをつらつらと書いてきました。

これは僕自身の考えなので、人に押し付ける気も評価してもらう気もさらさらありません。

ただ、こうやって何かを語ることで自分の頭が整理され、発信することで、誰かの参考や議論のきっかけになる。

何かを語りだすとき、特に子育てに置いては「人それぞれだから。」という言葉に逃げがちです。

その通り。その通りなんですが、その一言で、僕は議論が深まらなかったり、思考停止になることが一番もったいないことだと思います。

他人を批判したり、評価することに意味はありませんが、逆にそれを恐れるのも、また同義だと思います。

子育てが親育てであるなら、僕たち親は自己成長を止めてはいけません。

子どもに期待するのも良いと思いますが、もっと自分に期待することを大切にして良いと思います。

だからこそ、自分の考えや価値観を大いに語り、議論を深めていくことは大切なことだと思います。

 

 

 

 

 

 

弱みは強みに変えられる

僕はとても傷つきやすいです。

昔はこの傷つきやすさが嫌で、よく自己嫌悪に陥っていました。

ただ、今ではこの傷つきやすさが今の自分を作っているのだと思えるようになりました。

 

深読みしすぎる

僕は人に何か言われるとそれを深読みしすぎる所がありました。(今も多少あります。)

友達や彼女に言われた一言を2,3日引きずることなんて、しょっちゅうでした。

傷つき落ち込み。傷つき落ち込む自分に落ち込み・・・・。

この悪循環をずっと繰り返していました。

 

妄想野郎

僕は妄想するのが好きです。時々、妄想と現実が分からなくなることがあります。(大丈夫か!)

良い方に妄想が広がればいいのですが、悪い方に広がるとえらいこっちゃになります。

悪い方に広がる妄想は歯止めが効かず、心の中で自分をフルぼっこにしています。

僕は一時期、この自分フルぼっこ妄想が止まらずに自己嫌悪の塊のようになっていました。

 

妄想野郎の末路

悪い方へ悪い方へ。そんな妄想が止まらない状態が続くと人間はどうなるか。

僕は人の目を見て話すことができなくなりました。

そして、自分に起こることすべてをネガティブにとらえ

「なんで俺ばかり…。」

この言葉に支配されるようになります。

特に20代前半はそんな状態で、現実逃避を繰り返すようになります。

ある言葉が少しだけ角度をつけてくれる

僕の人生を変えたひと言…なんて言葉が僕には、あまりありません。

ただ、右肩下がりだった僕の心にちょっとだけ角度をつけてくれた言葉があります。

僕はプロ野球を見るのが大好きで、ダイエーホークス(現ソフトバンクホークス)の大ファンでした。

その中でも城島健司選手が好きで、応援に球場へよく足を運んでいました。

そんな城島選手にある大きな試練が訪れます。

それはチームメイトの藤井将雄投手が、がんで31歳の若さで亡くなった時の話です。

兄貴のように慕っていたチームメイトの突然の死。

城島選手はあまりのショックに引退すら考えたそうですが、

「試練は乗り越えられる人にしか来ない。」

その言葉を胸に刻み、現役を続け、メジャーリーガーにまで上り詰めます。

僕はその一言で、自分の置かれている状況、心の在り方を考えるきっかけになりました。

 

少しずつ傷つきやすさが好きになる

僕はこの傷つきやすさの正体は何なのかを考えることにしました。

それは「感受性の強さ」でした。

今思えば、簡単なことだったのですが、ここに行き着くまで結構な時間を要しました。

「そうか。俺は感受性が強いから、傷つきやすいんだな。」

そう思えるようになってからは、妄想野郎パワーを良い方に向けられるようになってきました。

少しずつですけどね。

 

感受性の強さが最大の強みになる

傷つきやすい=感受性が強い

そう捉えるようになった僕は、この感受性を最大の強みに変えることができるまでになりました。

傷つきやすいという事はその分、人の傷みもわかるという事。

妄想パワーは、流れてくる日々のニュースの向こう側を考えることができる事。

馬や子どもの小さな変化に気づける細やかさを持てるという事。

不幸も感じやすいけど、同じくらい幸せを感じることができる事。

僕は今では感受性の強さを最大限発揮して、日々の仕事や生活に生かせていると胸を張って言えるまでになりました。

 

感受性の強さがあったから選べた自分の生き方

僕の感受性の強さが最大限発揮され、僕の生き方の指針となる出来事が二つあります。

一つは児童虐待の問題

僕は虐待のニュースを見るたびに、その子の痛みが自分の痛みのように感じ、心がズタボロにされます。

以前の僕なら、無力な自分にただただ打ちひしがれていたと思います。

でも今は、その痛みを力に変えて、児童虐待に立ち向かい、虐待の無い世の中を作ることを本気で目指しています。

もう一つは、東日本大震災。

震災が発生したときは、あまりの被害の大きさ、自分の無力さに、さすがに心が折れそうになりました。

特に日和幼稚園のバス事件と大川小学校の件は目をそらしたくなる悲しい出来事です。

でも今は、そのような不幸を二度と繰り返さないよう、子どもが安心して過ごすことのできる社会を目指しています。

今の僕を奮い立たせるのは間違いなくこの二つの事です。

 

最後に

人には必ず二面性があると思います。

ただ、その二面性は捉え方一つで大きな強みになり、全く違う人生が待っています。

僕の場合は傷つきやすさを弱い自分と捉えて、自己否定をしまくっていました。

でも、感受性が強いと捉えることで、最大の強みに変えることができました。

自分の最大の弱点と思っていたことが最大の強みになる。

それは特別な出来事で変わるわけじゃなく、捉え方を少しずつ変えて、ほんの少し角度をつけるだけでいいと思います。

よし!今日から俺は!

・・・では、また変われなかった自分を責めてしまい、さらに悪循環に陥ってしまうので、僕は小さな角度をつけることを心掛けるのがいいのかなと思います。

弱みは強みに変えられる。

今は胸を張ってそう言えます。